四国霊験記・巻の下
〜繁田空山法眼著〜



 第廿二番 本尊薬師如来 坐像二尺大師ノ御作

 阿州那賀郡あらた(の)村南向にて、白水山平等寺ハ大師の御開基也。大昔者七堂伽藍にて寺院十二宇有しと云。本堂南阪の下に清泉ある故に白水山と号す。泉の字を分て白水・山と云。稼人此水を汲時者忽ち濁ると云。昔より正月十六日にハ法会有ると云ける。

 行者問:大師此寺を平等寺と寺号を成し玉ふ其因縁者如何?

 答:されば見聞の義を少し談じ申す。

 平等寺とハ釈尊初めて薬師如来を刻ミ玉ふ時に四ヶ院の内平等院に安置なさしめ玉ふ。薬師ハ三国無双の薬王仏なり。此薬師の因縁者、今京都の因幡薬師が即天竺平等院の仏也。我朝平等寺の寺号ハ承和元年四月八日に人皇八十代の帝高倉院の御勅にてこの平等寺と云勅筆の御額を被下ける。是より此寺を平等寺と号す也。此如くに我が大師も大昔廿二番の本尊を薬師と被成て寺号を平等寺と被成しと聞。されば因幡薬師と御同体の尊仏故に寺号も同時成る事を知るべし。

 行者問:其同号の因幡薬師の尊ふとき因縁を聞かし玉へと。

 答:我少し見聞の義を談じ申す。

 彼の薬師者天竺にて祇園精舎の四十九院乃中にて東北の隅(すみ)に有る療病院の本尊にて、是れハ釈迦如来が末世悪世の衆生を助けんが為に栴檀にて自作り玉ふ所の御本尊也。其後彼薬師如来ハ東方をさして飛玉ふ也。然るに日本ハ六十六代の帝一條院の御宇、長徳三年に因幡の国加留郡の海底より漁夫の紐にかかり玉ひて上らせ玉ふ尊像なり。其後七ヶ年を経て長徳五年の四月七日に、因幡の国より京都は橘の行平ノ郷の宅へと自然来り玉ふと云。此橘氏は前因幡の国司にて御奉行の時かねがね此薬師を御信仰成し玉ふ故とかや。其橘氏の屋鋪に堂を建て此仏を安置し奉る。今の因幡堂これなり。此寺の本願ハ行平。郷の子息を光明禅師と申也。此上人が開山とかや。

 亦曰:日本薬師利生記に曰、人皇七十代帝後白河院法皇は御頭痛の悩あり。是に依て種々医薬を用ひ玉ひ亦御祈祷も品々と被成ると云とも少しも験なきなり。有時臣家の進めに因て熊野山に登り玉ひ、権現に此難病平癒を祈り玉ふに、其夜の夢の御告に曰、洛陽に天竺より渡り玉ひし医王仏有り。是へ願ひを致せば速に平癒有べし、との御告成れば此時法皇歓喜のなし玉ひて直に京都へ御皈り被成れて右の因幡薬師へ七日の間御籠り被成れて一心に御祈願の成し玉へば、不思議や七日の夜如来忽ち現じ玉ひ御手づから香水を以て法皇の頂を洒ぎて玉ふ。君の前世は彼熊野山の行者蓮花坊と申す山伏なり。死して後因縁に依る首を岩田川に沈たり。是故に今難病を受玉ふ也。早く彼首を取上げなバ其頭痛の難病忽ち癒べしとの御霊夢なり。

 此後勅命を以て其首を御尋有りけるに果して岩田川の水底よりかの首を取出せり。即此首を観音の御頭へ作り込られて亦御立願にて三拾三間堂を御建立の有之、此寺を蓮華王院と名付しと云。然るに不思議なるかな数年の御悩忽ち平癒被成たり。是即此因幡薬師の御霊験成りしと云。法皇は権現に祈り玉ふ。亦権現は薬師如来に譲り玉ふと云。蓋し此薬師は衆病悉除の悲願のあればと思ひしに因果報応の理ハ如来だにも免れ玉わずとかや。釈尊も因位の時に摩カツの魚の首をたたき給ふ。此報に因て頭痛を病むと説玉ふ。


第廿二番 その二 / その三



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