遍路と原爆(七)



 祖父五郎の絵が中国の新聞に紹介されたことに端を発した今回の雑文であったが、原爆と遍路と直接につながるような話題は見当たらない。還暦とは申せ、戦後生まれの身であれば致し方ないところであるが…。
 小生も妻も『原爆二世』である。広島に生活した小生らはなんとも思っていないが、噂によれば二世は忌避される場合もあったようである。確か広島市内の比治山に「ABCC」とかの米軍施設があった。小生はよばれたことは無いが次兄は年に一度か大型リンカーンかしらの車がきて、被爆後の検査に応じて居たように思う。小さなケロイドが身体に残っていたからである。二月生れの兄は六ヶ月検診かしらで、ドーム近くにあった産婦人科病院(市原?)にでかけるべく広瀬町(爆心地の西北方)の自宅前で被爆したのである。母は目立った後遺症はない。大正七年生まれであるが、今に四国遍路(バスにて四度目)に出かけている。
 十数年前亡くなった祖母はこのとき肩から腕にかけて火傷を負い顎の辺りも少々引きつっていた。父は中国から戻って、北九州の海岸で竹やりをもって米軍の襲来に備えていたという。
 猿楽町八十四番地こそは今に小生らは本籍地にしている。現在表記では紙屋町二丁目である。現在そこは電気屋昔「だいいち」。今「デオデオ(DEODEO)」の本店になっている。祖父の事務所の隣(同番地内?)には児童文学者某が居たという。この事務所にあった金庫の話は次回に。



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