還暦偶感録


★これは昨今の久間防衛大臣の発言にうながされたものではない。一週間前であったか、祖父の絵(原爆の図)が中国の新聞紙に紹介されていることに気づいたことによる。そして『遍路と原爆』について数編の短文を書き始めたのは先月の二十五、六日のことである。そして大臣の原爆発言が追い討ちを掛けてきたのである。これまで安楽な日々を過して余り原爆のことには触れてこなかったのであるが、とうとう捕まってしまったのである。  平成元年(一九八九)愛媛新聞の『四季録』を執筆した際には祖母の被爆体験を少しばかりのべているのだが、それにしても余り原爆については語る気がしなかったのであるが、どうにもならない、またなるべくしてなった諸事情が我が身に纏いついている。語っておかねばならないのだろう。本籍地旧名「猿楽町」は、広島市民球場の南側電車道を挟んで原爆投下のドームに連なる地域である。あの昭和弐拾年当時の町並みが復元され、NHKの番組でも放送されたのだが、我が祖父の事務所の存在は見落とされていたようだ。威張って語るほどの良い話題が無かったのであろう。それでもいささか、戦後昭和二十二年生れの小生に流入している原爆の記憶を語ろうとするものである。
〜平成十九年七月三日〜


★今日の新聞一面は「久間防衛相辞任」である。一瞬にして消えた何万人ほどの衝撃は無いが、やはりアア無常である。そうした世の倣いに言の葉を聊か流し続けて来たものであるが…
〜七月四日(旧五月二十日)〜


【平山郁夫「広島生変図」 読売新聞平成二年(1990)八月七日号】


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