遍路と原爆(八)



 小生の母はドーム近くの産婦人科病院に出かけ宇土湖であったことは述べた。では妻の母はどうであったか。まだ未婚の身で市内の郵便局のビルに勤めていた。そのビル内で被爆。それから歩いてドームの傍らを通り、丁度都合よく小船に乗せてもらって対岸に渡ったそうだ。そのさいに声を掛け合った河岸にいた同僚の女性とは二度と会うことは無かったそうだ。こうした母を持つ我々二人であるが、どうやら少しばかり堅固な身体を受け継いだようで、多少ダブツイタもてあまし気味の肉体を維持している。

 さて金庫の話である。母は広瀬町から、祖父は双葉山(広島駅の北側)から通っていたわけであるが、母の言うにはその事務所の金庫の中に、いつも壷に入れた水を入れ替えるのが一番の日課仕事であったというのである。そしてあの原爆の被害にも負けずに金庫の中身(書類)は無事であったという。一昨年かしらに聞いた話である。一体全体このことがどれほどのことであるのか自覚できないままウッチャッテいたのであるが…

 小生本籍地猿楽町八十四番地の隣人「鈴木三重吉」について少し検索して見たところ、結果、名作と評判の高い『千鳥』を読むことになった。久しぶりに一気に物語を読み終えたのである。ことに漱石草枕との関連などの話にも改めて興を覚えた。小生は小説はそんなに読んだ方ではない。一番意夏目漱石の書いた物語が好きであった。それ故にという訳ではなかろうが、『千鳥』は心地よく読みきれた。

 なお猿楽町八十三が三重吉の住所で、はや原爆以前に死亡している。現在大手町の住所表記のことなども知らされた。小生免許証の本籍地は相変わらず紙屋町のままである。



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