四 現認記録−2 @〔阿波国二十基〕 11、十五番国分寺。ここもモデル図と少し違っている。原簿には、 一 壱本國分寺 佐古町五丁目 奈良屋幸七 とあるが、実際には「施主 女講中」となっている。 12、十七番井戸寺、一応モデル図様で梵字アと大師像が彫ってあるのだが少し違和感を感じる。石材も伊予今治で徳右衛門が準備したものではなく、徳島の物(撫養石)であろうか。 13、二十番鶴林寺。モデル図様。 14、二十一番太龍寺。モデル図と少し形状が違っている。モデル図では上部が丸く蒲鉾型になっているが、此処のは四角錐状である。先端が尖っているのである。大師像もまわりを窪めて浮き出した姿にしているのも、丁寧な見栄えのする作りである。寛政九年の年号が彫ってあり、また正面の刻字は前後二ヶ所(二十番と二十二番)への距離の指示となっている。つまり通常モデル図通りでなく、他の丁石(たとえば二十番のもの)とは製造時期が同一ではないようだ。これは太龍寺が西の高野山として、特別な場所(寺院)として見られていたことによるのかも知れない。 16、二十二番平等寺。「これより薬王寺 五り」とある。以前(昭和50年代)には仁王門向って右下に立っていたが、そのご一時境内鐘楼近くにおいてあった。最近(平成二十一年)は山門向って左下に立っている。所が文化二年(一八〇五)の『四國中道筋日記』では「此所5道志るべ七リ、御堂下ノ立石ニハ五リと有」と、紹介記事がある。これは真念の案内書(道指南)記載の距離(七里)が実情と違っていたので、徳右衛門は「五り」石を設置したのであろうか。理由は不明であるが、このことに関連してか施主の徳嶋大師講と齟齬を生じたようである。そして四国中千躰大師を標榜する「願主真念」を名乗った照蓮の標石設置運動が文化六年から始まるのである。 ここで問題となるのが徳嶋(大師)講中である。徳右衛門丁石でも「里浦四国講中」「桑村講中」の用語が使ってあったが、照蓮の千躰大師標石の世話人として活躍したのが「徳島講中」であった。詳細は不明であるが、佐古町にいた板東氏が徳島大師講を名乗っており、徳右衛門との交流が浅からずあったのである。ところが真念の道指南所載の距離と徳右衛門丁石とでは二里の違いが発生している。それに照蓮は異議を感じて千躰大師標石を建立し始めた節がある。「まるでバトンタッチしたかの如く」徳右衛門の丁石(文化四年成就)に続いて、照蓮の千躰大師が文化六年から立ち始めるのである。 徳右衛門と照蓮の関係がどのようであったかは謎である。しかし(徳嶋佐古町)大師講板東氏が施主となって遺した石が、そうした由縁を秘めているのである。 一 壱本 平等寺5施主板東祐貞 壱里先ヘ立ル〃 蓮貞 *立石図(大師講中) *立石図(大師講中) 一 壱本 三角寺施主右両人 一 壱本 田野村恩山寺 阿州徳嶋板東氏祐貞 一 壱本 立江寺地蔵尊 阿州徳嶋板東氏 「大師講中」の立石図 原簿記述では、カット図のように二基の立石の図中に「大師講中」の文字が書き込んである。これは重要な特異なことである。恩山寺と立江寺のものは未見。幸いに平等寺と三角寺のは残っている。平等寺の「壱里先へ立ル」とあるのがカット図記載向って左側の立石であろうか? 実はそれらしき「五里」石があったのである。前述した境内鐘楼傍らに積んでいた中にもう一基(15)徳右衛門丁石で、「五り」の刻字のものが下積されてあったのである。現在不明となってしまったが、同様の形状で刻字が「リ」と「里」で区別してあった。これは七里と五里、二里もの距離の差で徳島講中=板東氏と見解が分かれ、それで二基の丁石を立てたものの、以後は袂を分かちて標石設置運動を続けることになったのではなかろうか。 板東氏の一人が「蓮」貞の名で有り、もしかしたら照「蓮」との関連が想像されるのである。 cf*『四国辺路研究第十一号』 *『四国中千躰大師』福井宣夫 |