四 現認記録−3 @〔阿波国二十基〕 15、現在不明。平等寺に保管されていた。刻字は「アこれより薬王寺五里」であった。残念ながら施主名は読み取れていない。おそらくは「大師講中」世話人板東氏と推測される。 17、鉦打。「従是薬王寺五里半」の刻字。ところが原簿記載は次の通り。 仲郡中林村 一 壱本 平等寺5■里先 尾崎貞吉 同村 幸吉 ■は「弐」を消そうとしたように墨がかかってある。実際に証打は平等寺から壱里位の距離である。徳右衛門が原簿記載に際して勘違いしていたのではなかろうか。 なお形状は先端が浅い四角錐状、つまり平等寺門前のようなカマボコ状に丸く(モデル図様)になっていない。このことは作成年月が違うことを物語っているのであろうか。刻字は左の通り。 〔向右〕施主那賀郡中林邑 尾崎貞吉 幸吉 〔正面〕(大師像) 従是薬王寺五里半 本願主豫州人 〔向左〕四つの国あゆミをはこぶくりきニて 飛と阿しづヽ尓きゆるつミとが めずらしく歌が添えてある。そして願主の代わりに「本願主 豫州人」と云う刻字も通常でない。原簿記載の「平等寺5弐里先」に問題(弐里ではなく壱里相等)があったからこのような通常とは違った刻字のものとなったのではなかろうか? いづれにしろ、二十二番平等寺に真念の道指南(当然に増補大成本)の距離七里ではなく五里石を立て、さらに壱里先にも五里石をたてたこと。その記録を立石図を添えて書き残していること。それにつづく場所鉦打(薬王寺五里半)には「本願主豫州人」として、添歌もしているのは、どうも通常な様子では無い。 18、由岐。住是薬王寺二里であるが、これにも「本願主豫州 徳右衛門」とある。そして寛政十二年とある。前の17の石と作りも同じく、これからすれば同時期と考えられる。施主の新濱善蔵は後述するように土佐の丁石も寄進している。 19、よここ峠。東寺迄廿里。 20、海南町一里松。ア(大師像)是より東寺迄十六り。施主日和佐浦□本や定七・小松屋源治郎・花や又□。 |