徳右衛門丁石の話
善通寺紀要 第15号より



 四 現認記録−1


 @〔阿波国二十基〕

 まず1であるが、これは年号「文化四丁卯二月」の刻字があり、墓誌銘にいう最後の年、満願時のものと思われる。刻字の距離「十丁と廿五丁」は真念の『道指南』記載と同一である。周英の『四國禮絵図』でも同様である。今は境内に置いてあるが、元来は明らかに二番(の門前)に建てていたものであろう。
 施主の「里浦四國講中」は丁石正面に読み取れるのであるが、側面建立願主の所が読み取り難い。わずかに「いよ」の仮名文字が見える。しかしその下当りは擦り減ったようで読み取れないのである。
 ここ二番極楽寺に関して原簿記録の該当部分には、

一 壱本弐番極楽寺江同郡三又村半兵衛・林蔵
是より廿五丁 

とある。「同郡」は「板野郡」である。この前後には一番霊山寺と三番金泉寺についての記事であるが、どちらも「施主なし」の追記がある。実際に現認できていないが建立されなかったのかも知れない。
 他の丁石と違って、ここの石は前後一番と三番への距離を指示しているのも特異なものと言える。墓誌銘にいう「文化四年」の記年銘と同年なのも徳右衛門にとって特別なものであったろうと推測されるのである。
 この外の願主徳右衛門石は、阿波北方分には残っていない様である。つまり現認出来ていない。
 2・3・4は十二番焼山寺まで三里の道筋、一里ごとに立っている。形状は代舌文のモデル図様であり、石材は今治の大島石(花崗岩)。さきの1は赤味を帯びた撫養石(砂岩)のようである。
 5・6・7・8は一の宮(十三番大日寺)まで五里の内四本。いずれも大島石(花崗岩)であり、2〜8はマニュアル通りモデル図様のものであるのだが、9は少し変わっている。石材が違うし、上部梵字(ア)もなく、「寛政十二」の年代を刻んでいる。距離も「一里半」と半端なものである。一里石は見つかっていない。
 10もまたマニュアルつまり勧進代舌にあるモデル図と違う。上部梵字はなく、大師像でもなく弥勒菩薩像(十四番の本尊)となっている。又施主は徳右衛門と同じ朝倉上村で同族の人であろうか。戒名「徳光一貫居士」の添刻も珍しい。



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