三 町石勧進代舌 これは徳右衛門の道標石設置に際し、寛政六年(西暦一七九四年)に札所の住職が代舌したものである。その代舌の勧進記録簿とは、この徳右衛門の事業に応じた人々の寄進金額や名前、さらには個々の立石の設置場所などについて記録されたものである。現状と一致しない複雑な事情を垣間見ることも出来るのであるが、何よりも往来の遍路人に対する善行であり、仏心発露に格闘した貴重な記録なのである。ここではそうした記録に潜む人間の信仰心についても思いを馳せてみなければならないであろう。
これにさらに標石の仕様図が加えてある。一地方といっても八十八ヶ所の札所寺院の住職(真言宗の僧)が述べたものであり、高祖弘法大師への信仰を基礎としたものだけに、弘法大師の存在が標石に刻み込まれることになったのである。それまでにも大師像の石造物は散発的に見られたところであるが、カット仕様図のごとく「長ケ五尺」の上部に、つまり等身大の大師石像が遍路道端(四国中)に設置されることになったのである。 遍路の増加と道しるべ石の存在について語っているのであるが、それまでのしるべ石の欠陥として里数について委しくないことを指摘している。それまでのしるべ石の特徴としては、分岐点での《左右》が重要事であったのだが、徳右衛門の時代には札所間の《距離》が問題となってきていたのである。そこに「町石=丁石」という距離概念の用語がつかわれたのである。 実体としては、「丁」よりも「里」に関わっている方が多かった。仕様図にも次の札所への「何里」を示しているのもそうした理由である。 八十八ヶ所の札所間の距離は、最近では千二百キロとも千四百キロメートルとも称されているが、『四國邊路道指南』で真念が言っているように、「三百有四里半余」が当時の知見であった。一里ずつに建てて行っても三百基強の丁石(里石、里程石)を必要とするのである。場合によっては短距離の所もあるわけである。 寄付原簿記載の石は、阿波四十八・土佐七十五・伊予六十六・讃岐二十八の都合二百十七本である。これに小生確認の数と照合すれば、どうやら二百五十本は準備されて、立っていたようである。 ここで煩瑣を厭わず現認分個々の町石について、原簿記載分を参考に、各国別にみてゆこう。 |