茂兵衛の添句標石
〜同行新聞 昭和59年6月1日 第218号より〜


 茂兵衛の添句標石 <その8−1>


 ◎道知石

 『愛媛県越智郡菊間町佐方字町、池田義一氏宅前。県道と旧遍路道との三ツ角の標石』

 ここにも添句してあります。
 大正二年四月、二百四十七度目の為のものです。
 大阪府堺市の長瀧シゲさんが周旋人となって、九名の施主がいます。名のみ記してみましょう。

 中田巳之吉 塩田治三郎
 手島小梅 長瀧ナカ
 岸本安次郎 角萬太郎
 伊藤スヱ 福島藤吉
 本多卯之吉 以上

 その心 唯一すじに 法のみち

 カット図をみて下さい。右の添句標石は図のD地点『道知石建設地』の書かれた処にあります。
 

 亀岡村役場より茂兵衛さん宛の手紙に添えられた略図

 ABCEの黒点と、白地道路は筆者の書き入れたもので現在の国道です。
 原図は亀岡村役場で書かれたもので、海と川は青色で、道路(黒地にみえる)部分は朱色で塗ってあります。この地図は差出人が、「愛媛縣越智郡亀岡村役場」の手紙に添えてありました。受取人は「中司茂兵衛」です。

 亀岡村○○一一一号
 御所状拝讀然レバ今般四國巡拝者ノ便宜上本村内へ道知石御建設被成度趣ヲ以テ御照曾ニ接シ候処、本村ニ於テ新道旧道ノ別道ハ数ヶ所有之、単ニ別道トノミニテハ寛地不分明ニ有之候間、別紙略圖ニ建設箇所御点印被下候ハバ、寛地調査ノ上直ニ御回報可致候条、左様御了知相成度、此段及回答候也
 大正二年一月二十九日
 越智郡亀岡村役場 印
 神戸市港町ニ於テ
 中司茂兵衛殿

 以上です。内容は、四国巡拝者の便宜の為に、新旧道の分岐(わかれみち)に、道知石(みちしるべ)を建設する場所を、添付の図面に印を入れて返事して欲しいというところでしょう。
 カット図のD地点には丸印が入れてあり、「道知石建設地」と記してありますが、これは一体誰が書き込んだものでしょうか。
 図面作成者の字と異なる様なので、茂兵衛さんか信者の書き込みかも知れません。

 さて問題は、図中太い方の県道が何時頃完成したかということです。なぜなら問題の標石(道知石)が建立されたのは、新道――つまり図中の県道――の開通に伴うものであるからです。
 ここで「菊間町誌」より引用してみましょう。

 亀岡村郷土誌によると亀岡地区の施行は43年7月より菊間町堺より着工佐方川以東(注・つまり図のDE辺り)を第1号以西を第2号工事とし10月17日第1号、12月18日第2号工事が完成している。
 これを契機にして人力車、客馬車、自転車が導入され、実生活に活用されることになった。

これによれば、明治四十三年には、佐方川以東つまり、D地点での新道は開通していたようです。

 それから標石建立の大正二年四月まで二年半の間があります。
 役場からの封筒は、三銭切手の消印が、大正二年二月十日・愛媛菊間、となっています。ついでに記しますと、この封筒には都合四ツ消印があります。
 表のもう一つは、神戸・大正二年二月十一日。
 そして裏面には、兵庫・二月十一日、と、大坂・二月十二日の消印です。



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