茂兵衛の添句標石
〜同行新聞 昭和59年6月1日 第218号より〜


 茂兵衛の添句標石 <その8−2>


 ◎坂井ウタ様方

 亀岡村役場よりの手紙の宛名は次の如くなっています。

神戸市兵庫港町一丁目
五百廿五番印
 坂井ウタ様方
 中司茂兵衛殿

 この坂(阪?)井ウタさんは茂兵衛さんと御縁の深かった信者の一人です。
 また熱心なお大師さんの信仰を持っていた方です。小松町新屋敷(愛媛県61番香園寺近く)に「神戸信徒中」が施主となった標石があります。これには、

 九度目為供養阪井ウタ

とあります。これはウタさんら信徒がお四国巡拝九度目の供養にこの標石の施主になったということです。
 明治三十六年、壱百九十八度目。茂兵衛さんは数え年59才の時です。

 

 亀岡村役場より茂兵衛さん宛の手紙に添えられた略図

 さてもう一つ、この阪井ウタさんについて述べなければならない標石があります。
 それは、図中Eの標石です。この標石は「大正五年三月吉辰立・神戸市港町一丁目、願主阪井ウタ娘コト」とあります。
 勿論茂兵衛さんも願主となっておられます。施主は「越前国勝山町野邊むら」「延命寺へ壱里半・圓明寺へ七里半」「二百六十二度目」の標石です。
 願主に娘コトの名があるのは、もしかしたら母親のウタさんが亡くなられたからでしょうか。
 

 越智郡菊間町高城の標石――願主茂兵衛(徳右衛門標石の再利用)

 この標石は正面上部に梵字と大師座像があります。まぎれもなく「予州朝倉村徳右衛門」さんの標石なのです。
 この事は既に同行新聞紙上でも述べた通りです(191号)。

 ○

 茂兵衛さんの添句標石から話がズレますが、もう少しこの近辺の標石についてのべてみましょう。

 図のAからEまで、直線距離が一里弱(三千七百五十メートル)あります。ほぼ一里といってよいでしょう。それゆえ、A地点にも「徳右衛門」さんの標石があります。
 これもまた茂兵衛さんが再刻利用されています。そして側面からみればこの標石が頭デッカチとなっているのがよくわかります。
 梵字大師座像の下がけずりとられ、新しく施主の名が刻まれているのです。
 明治四十四年六月の日付がありますが、度数が書いてありません。施主は大坂の人で「御嶽教宇賀教会・中□ 竹田国子」さん。

 B地点。ここには茂兵衛さんの標石があります。
 「左 札所」右向の指印の下に「遍照院」とあります。この遍照院というのは菊間町のお寺のことです。
 明治廿五年三月の建立、壱百廿三度目のものです。

 次にC地点。図中には、「弘法大師遺蹟・立葉坂青木水・地蔵尊」とありますが、このすぐ近くには簡素な標石があります。

 ○

 茂兵衛さんの添句標石と村役場より出された図面より、道の変化と標石の変化について少しのべてみました。
 なお前回の添句標石の集計に含まれていないのが、土佐にあるとの情報を頂いています。種間寺の近辺で「旅○れし」の句があるそうです。二百五十六度目ということですから、大正三年か四年のものでしょう。



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