茂兵衛の添句標石
〜同行新聞 昭和59年5月21日 第217号より〜


 茂兵衛の添句標石 <その7−2>


 ◎峠の茶屋で……

 いづこの峠でも良いのでしょうが、ここにいう峠は松尾峠(愛媛県宇和島の南津島町高田)のことです。

前略。先般御申出の松尾峠の道標の件につき御返事申上げます。
五月二十八日津島町高田松尾峠の道標のあった場所へ確認のため行ったのですが、以前にあった場所には見あたりませんでした。
以前にあった場所は峠の茶屋のあった場所で茶屋のあとはありましたが、道標は見えませんでした。
残念でした。近頃道標とか地蔵様とかなど、マニヤが昔の物を集めると言ふ事をきヽました。
 鶯や ほう法けきょの 法の声
たしか終戦の時には立派に立って居たのですが、今はその道標もすがたを見せず残念です。以下略

 まさに幻の一基。これが茂兵衛さんの添句標石であった様です。
 手紙は北宇和郡津島町上畑地の曽根龍吉氏より頂戴したものです。五月十八日に南予から土佐の延光寺へ調査に参った時、上畑地で運良くこの曽根さんに出会い、色々なお話をうかがいました。
 確か昭和12年といわれたと思いますが、四国巡拝を自転車にて、12日間でまわれたそうです。
 この方に松尾峠の法の声標石を聴いたので、延光寺の帰路たずねてみたのですが、生憎と見つからず、その報告に、曽根さんがわざわざ峠まで走られて調べられた結果が先程の手紙となった次第です。



 略図を書きましたので参照して下さい。中央部Cの堀切りを抜けた左手に茶屋があった跡。その前に小道(茂兵衛さんも通ったへんろ道)があります。ここに鶯の標石があったのでしょう(スモモの木があった由)。
 当日AからDに抜ける道へ入るまえに、Aから左手へ迷い込んだのですが、この時にも鶯の声がよく聴こえてきました。
 Bの地点には昭和八年建立の標石があります。手紙の後半部に曽根さんが書き込んでくださいました。

 合掌坐像の下に左右へ向いた指印があります。

 岩松町へ一里
四十番へ八里一丁
 宇和島四十番奥の院へ
二里廿丁
 世話人高田 木下幸太郎
 施主岩松町 小野唯三郎

以上の事がこの立石には刻してありますが、大切なことは昭和の初期にもこの道を通っていたことです。
 曽根龍吉さんも自転車を押してこの道を通られ(その時にもこの昭和八年の立石はあった筈)茶屋で一プク。ホーホケキョの法の声に聴き入った事でしょう。


 ◎旧街道

 なぜ松尾峠にあった添句標石が茂兵衛さんのものであったのか。それは愛媛新聞社(著書)の『旧街道』という本でわかりました。

岩松を出た旧街道は高田の上谷から山にはいり、松尾峠を越えて柿ノ木に出る。下谷の旧街道入り口には明治四十五年に建てた道標が立っていた。
 ………
峠には雑草におおわれた茶屋のあとがあり、大正元年十二月に周防国大島郡の人が建てた高さ約一メートルの道標が立って、むかしのにぎわいをしのばせていた。峠から東に折れて約五百メートル。野井越えの県道に出て、街道ぞいの宿毛街道は終わった(33・34ページ)。

 昭和48年発行の本で、この記事によれば、茂兵衛さんの標石が当時あった様子です。
 しかし今となっては行方不明で残念な事ですが、有難い事に曽根氏のおかげでこの句を耳にすることができました。

 鶯や ほう法けきょの 法の声

 この法の声は茂兵衛さんの時代にも、現在人も通らぬ淋しい道にも、常恒説法じょうこうせっぽうましますということでしょう。

 延光寺近くの「法の声」の句は明治四十三年ですから、それからすぐにこの、松尾峠の「法の声」が建てられています。
 宿毛街道の南と北で、土佐の鶯と伊予の鶯がホーホケキョと呼びあっているのでしょうか。

 花の香に 鶯の聲や 法の道 榮徳



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