茂兵衛の添句標石
〜同行新聞 昭和59年5月11日 第216号より〜


 茂兵衛の添句標石 <その6−2>


 ◎標石集計

 茂兵衛さんの標石は現在のところ、百六十五基だそうです(坂出市の月刊川柳誌・案山子、昭和59年5月号。「中務茂兵衛」細谷晃長)。
 最大数の愛媛と香川で都合百四十基。徳島と高知で二十五基ということです。しかしまだまだ徳島県に十数基の茂兵衛さんの標石が眠っていそうです。まあ現在のところ二百弱という処でしょう(折しも細谷氏よりの来信。讃岐にもう四基追加発見、都合七十二基。愛媛県より多くなります)。

 さて添句標石(添歌も含む)集計。

 愛媛:十五基
 香川: 六基
 徳島: 二基
 高知: 三基

合計二十六基。但し雲辺寺駐車場の添句標石は、徳島県分にいれました。
 これにもう一基、標石は不明ですが、確認されている添句標石が伊予にありましたので、二十七基ということになります。


 ○土佐の添句標石

 昭和五十三年発行の『四国遍路(鶴村松一著)』の見開きにある写真の標石がほかならぬ添句標石です。
 そしてこれが現在見つかっている添句標石として最後(大正七年)のものです。
 句はよく使われた(五基程ある)もので、

 迷ふ身 教へ通す のりの道

 と推測されます。今は句のあった部分がほとんど剥離して、わずかに句頭の「迷」の字と「通す法の」が残っているのみです(昭和59年3月現在)。
 この剥離はもっと進み、やがて近い将来、この標石に句が添えてあった事もわからなくなります。
 この意味において、先の「四国遍路」見開きの写真は貴重なものといえます。
 「西寺八丁」と逆道も指示してありますが、やはり神峯寺への標石と考えるべきでしょう。

 神峯寺 六里余
施主北海道函館区青柳町
 遠海ヨネ 岡ツタ
 村○ツネ 海老名セツ
 今井ミン 阿部トリ
 阿部トメ 阿部セイ

以上が正面に刻まれています。次に向かって右側面。

 西寺八丁
二百七十一度目為○○
 周防国大島郡椋○○
  願主中務茂○○○○

そして裏面に句があります。

 大○○○○月吉辰
 迷
 通す法

 これは先程の写真により大正七年九月がわかります。
 設置場所は『室戸市室戸町新村集会所入口』ですがここは《女人堂》のある所です。


 ◎女人堂

 文化四年、大坂の佐々井活郎右衛門によって出版された『四国礼絵図』のカットをみて下さい。

 
「女人結界」を示す四国礼絵図

 廿六番西寺は、《女人結界》とあります。そしてその下に

 キヤウトウサキ
 不動尊
 女人此所ニ
 札ヲサム


とあります。この場所に、先程の大正七年二百七十一度目の添句標石があるのです。国道沿いなので、車の方でも容易にみることができます。
 現在では《女人結界》という語も死語に近くなりました。しかし江戸期には厳然としたものだったようです。今少し神峯寺の女人結界ゆかりの標石について述べてみましょう。

 まず行当岬を望み、金剛頂寺の森も眺められる所、岩戸という場所には古い、《結界石》があります。とても古いものです。

 貞享二一六八五年乙丑歳 右寺道
従是西寺八町女人結界
 二月吉日立之 左なた道


 これは現在地(いづみ鈑金塗装)より東約百メートル(ガソリンスタンドがある)辺にあったそうです。
 つまり、この岩戸からお寺(西寺)までは女人は入ってはならない。左側の、なた道(灘道)を通って女人堂の方へ行きなさいという指示です。

 国道を少しゆくと、お寺への分岐点に「名古屋・伊藤萬蔵」という人の標石があります。
 この人は明治三十二年頃茂兵衛さんと出会い、両名併記(施主伊藤萬蔵・周施人中務茂兵衛)の線香立を数ヶ寺に残しておられます。

嵯峨天皇淳和天皇勅願處
 第二十六番霊場西寺


 指印に従いお山へと登って行きますと、山門下にも女人用の標石があります。

 筑前国宗像郡
指印 施主 中村宗三郎
 おん奈みちひだり光岡村



「女道」のしるべ石。二十六番金剛頂寺石段上り口

 そして今一基、境内の片隅に、

 是より女人きんぜい

という標石があります。これは『四国遍礼名所図会』の西寺こと金剛頂寺の項目の前に、

 標石(松原放れに有 松原長し)是より女は左へ行、男は右へ行く。川有(石ばしわたり)本村。是より西寺迄四丁坂也。坂半に女人禁制標石あり

という、太字で示した石に当ります。また引用冒頭の標石(傍点)は、貞享二年の女人結界の石に相当します。
 この結界石より、山の方へ行かずに海岸道を進むと先程の添句標石のある、女人堂に至ります。



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