茂兵衛の添句標石 <その5−1> ◎百度目為供養 中務茂兵衛さんは、明治十九年に念願のお四国巡拝八十八度を達成して、その記念に標石を建立しておられます。 村上節太郎氏の報告(愛媛の文化22号)では、八十八度目の記念標石は七基(阿波三基、土佐0基、伊予三基、讃岐一基)。 そして細谷長太氏の報告(坂出市の海橋誌)では讃岐だけでも七基の数に及んでいます。 これからみても、十数基もの標石が、八十八度目の巡拝記念に建立されていることがわかります。 八十八度目が明治十九年三月、それからわずか二年二ヶ月後の明治二十一年五月にお四国巡拝百度目を達成しておられます。 西暦一八八八年のことです。出生が、弘化二(一八四五)年四月晦日(細谷長太氏より頂戴した、除籍原本の抄本コピーによる)ですから、茂兵衛さんは、数え年四十四才の時にお四国巡拝百度目を達成されています。 中務茂兵衛事 亀吉 実は、この百度目の記念標石に『添句・添歌』したものが、現在のところ(昭和五十九年五月)七基程見つかっています。 世の中尓 神も仏も 奈きもの越 まれ尓志ん寿る 人尓楚阿連 四国路盤 八十八乃 御仏茂 天下可四海の 五穀成就 どちらの歌も、茂兵衛さんの百度目の標石に刻まれています。恐らくは茂兵衛さんの作と思われます。 前の歌は問題はないと思いますが、後の方が難解です。 上句の「八十八」というのは四国札所の数です。そしてこの石のある八十場の地名に掛けてあるのでしょう。 下句のコトバが不自然です。「天下可」を「天ヵ下」とするか、もしくは「可」の字を除けてみると、この歌の意味する所が理解できると思います。 口調がなめらかにいかぬのはともかくとして、「天下四海の五穀成就」という言葉は、さすがに明治の息吹を感じさせます。 茂兵衛さんは、標石に願主として名をとどめていますが、施主となっていることもあります。 また、周旋人ということばを使っていることもありますが、八十八度目の標石中《行者》と名告っているのがあります。 行者というものは、大方個人の願望よりも『天下太平・日月清明』といった、《天下》――今の言葉でいえば、世界・宇宙――の順調なる平和運行を願い、祈っています。 さて、本稿の最初(同行新聞210号)に掲げた歌、 うまれきて 残るものとて 石ばかり 我身は消へし 昔なりけり も、壱百度目為供養のものです。 そして、この歌が明らかに茂兵衛さんの作であることがわかる標石があります。 大正三年十月の建立。二百五十四度目為供養のものですが、一字程口語体の影響でしょうか「し」が「て」に変わっていますが、その歌の下にハッキリと、茂兵衛さんの名(僧名)が刻んであります。 石一つ調査するといっても、仲々に大変なことで、この『義教』という名が添えてあるのに気づいたのもそこに四度目か五度目に参っていった時でした。 生まれきて 残るものとて 石ばかり わが身盤消て 昔那り計梨 義教 大正三年――二百五十四度目といえば、多少は死の影をみることがあったものでしょうか。 間違いなく、茂兵衛さん自身の本音だったのでしょう。 茂兵衛さんの行く末を詠んだ歌 下に「義教」の名が見える |