茂兵衛の添句標石 <その1> うま禮来天 能古留茂の登天 石はか里 我身ハ消へし 無可志な里希り 松山市堀の内、県内美術館内庭にありますが、元々は道後上市橋の袂にあったそうです。 この標石(しるべ石)は中務茂兵衛氏が、みずからが施主となって、先祖代々(中務氏)の菩提をとむらわんが為に建てたものです。 またお四国遍路、百度目の供養として、明治21年5月に建立されています。 茂兵衛さんについては、すでに故鶴村松一氏がその著『四国遍路』と『四国霊場略縁起・道中記大成(中務茂兵衛著)』で詳しく紹介されています。 また讃岐では、坂出市の細谷長太氏が『海橋』という本に何度かにわたって述べておられます。 或いは読者の方で御存知でない方もおられるやも知れませんので、簡単に前著書より引用紹介させてもらいます。 生国は、山口県の大島、椋野村です。 弘化四年(一八四七)の誕生ということですから、百三十七年前になります。没年は、大正十一年。はからずも三月二十日、七十六歳で亡くなっています。 細谷氏は、弘化二年の生まれとして、七十八歳で亡くなったと記しておられます。 慶応二年(一八六六)に茂兵衛さんは遍路に出たといわれています。以来大正十一年までに、二百七十九回(二百八十回)も四国遍路をされたということです。 そして八十八度目の念願を達成して、お四国各地に標石を建てられ、以後次々と継続しておられます。 一番最近の報告(村上節太郎氏・愛媛の文化第二十二号)では、百五十基も茂兵衛さんの標石があるということです。 ◎ 生まれきて残るものとて石ばかり 我身は消へし昔なりけり 茂兵衛さんが、自身の行き末を歌ったものでしょうが、残された石のうち、百年も経ていないのですが、ボチボチと読解不可能な部分もあるようです。 就中・句や歌の部分は、万葉仮名がよく使用してあり、時々の筆使いも様々で小生ら如き物数奇な読み手が迷うハメとなります。 茂兵衛さんは、遍路ミチにおける迷いと、人生の迷いとについて、次のように歌っています。 迷ふ身を 教へて通す 法の道 歌の意味する所は簡単に理解できると思います。 札所から札所へと歩むヘンロさんに、次の札所はこちらですよと、指さして教えているのです。 そしてこのお四国の道を歩くことによって、人生の迷悟を教えさとしてくれるのが、この法の道=ヘンロ道であるということでしょう。 この句は、茂兵衛さんの好きな句だったのでしょうか。現在五基程、この添句した標石を目にしました。一番最初に目にしたのが、 『東予市三芳町楠字六軒屋の栴檀寺駐車場』 正面指印が右左を向いて国分寺と大峰寺を指しています。 大峰寺は、現在の横峰寺のことです。神仏分離の影響で、明治十二年から明治四十三年まで、およそ三十年間は、大峰寺と称していたようです。 この《法の道》の添句標石は、現在伊予で三基、土佐と讃岐で一基ずつ確認していますが、まだ何基かはあるように思われます。 鶴村氏が調査報告された茂兵衛さんの標石中、伊予の筆頭に次の如く記しておられます。 一、四十番観自在寺へ
内容は、建立位置の変更の為、文字刻し直しに必要なお金――五円を送った由で、宛先は、 伊予国宇摩郡新立村
この《仙龍寺》は、三角寺の奥の院、一時期には、《四国の総奥の院》と称したこともあります。 何時とはいえませんが、茂兵衛さんと随分御縁の深かったお寺の様です。 さて先程の手紙につづいて次のように書いておられます。 このとき建立された道しるべは、現在も残っている。……二宮勝義氏から筆者にきた、昭和五十二年五月四日付のハガキによれば……それには……世話人何某と二人の名があり、供養回数あるも忘失、裏に十七音の文字も印されてある。この地は宇和島方面に向う道と、御荘町へ通ずる分岐点となっている。 ここにいう、十七音の文字というのが、外ならぬ《添句》のことです。句だから十七音としたものでしょうが、場合によれば、字余りの十八音の句もあります。これはまた後程述べることになりましょう。 |