茂兵衛の添句標石 <その2> 『南宇和郡内海村柏の高橋昌俊たばこ店前(柏橋袂)』 明治卅四年拾月吉辰 世話人平城村田中○○ 石工 宇和嶋中○○ (指印・観自在寺) 播磨国加古郡高砂町通 施主 中須ひろ (指印・龍光寺) 壱百八十四度目為供養 周防国大嶋郡椋野村 願主 中務茂兵衛義教 (左 舟のりば) さあいよいよ次の面が問題です。 以登嬉し まよひもとけて 法能みち 昨年十二月二十二日木よう日、雨天にこの標石を眼にしたのですが、それまでに眼にした十数基中、一、二を争う《いい添句標石》でした。 南宇和郡内海村(柏橋袂)茂兵衛 いとうれしの句 前カット写真を味わって下さい。この石がある店の主人もこの句があるとは御存知なかった様です。 買物に来られた主婦の方も『イトウレシ……まあここにこんな句があったのですか』と驚いておられました。 実はこの主婦は、一寸したタシナミのある人だったのです。 最初の二字が「イト」と読めるのには、今こそ苦痛を感じなくなりましたが、これが一年も前だったら、果して読みこなせたかどうか怪しいものです。 いと嬉し まよひもとけて 法のみち どうやらこの句は、茂兵衛さんの心境の変化を表現しているようです。 この標石を建立された明治三十四年十月には、既に百八十四度もお四国を巡っておられます。 何度も何度も巡拝することの迷いでしょうか。あるいは二十前にお四国に入られて休む間もなくめぐっておられた茂兵衛さんにも、何か迷うような事があったのでしょうか。 まよいもとけた後の《法の道》もやはり 迷ふ身を教へて通す 《法の道》です。(この添句標石の建立年代は、明治四十四年六月と十月。大正元年九月。大正四年と大正七年とあり、「いと嬉し」の句より十年以上も後となります。) ◎うれしきもの 山中で うれしきものは 道おしえ これは、 『北条市浅海町味栗の鴻之坂にある。中務茂兵衛建立の標石に刻んだ俳句です。 此の道は、四国霊場第五十三番円明寺より、第五十四番延命寺へ往く旧遍路道(松山城下より今治城下へ往く今治街道)です』 (正面) 右・新道 大正四年二月吉良日 世話人浅海村高橋鶴吉 山中でうれしき ものは道おし恵 (向右側面) 世話人 金子ハツ 金子イシ 桃井ミヤ (左側面) 左背印 延命寺 施主 新潟縣佐渡郡小本港 伊藤ゲン 本間トラ 笠木チエ 本間イエ 金子モン (裏面) 右指印延命寺 二百五十八度目為供養建之 山口縣周防国大島郡椋野村住 願主 中務茂兵衛義教 わずか一基の標石ですが百二十二文字が彫り込まれています。 さて、ここにいううれしきものは《道おしえ》ですが、他所にもこの《道おしへ》があります。 明寺三十四年、百八十四度目の標石。 『川之江市川滝町椿堂の東約50メートルの所の三叉路角に中務茂兵衛建立の標石に刻んだ俳句があります』 |