茂兵衛の添句標石 <その3> 三つの角 うれしき毛乃盤 道越しへ 先程の山中といい、この三つの角といい、どちらも次の札所への《しるべ石》となっているのですが、その道を教へてくれる有難さと、今一つ アア、コレハお大師サンノ道ナンダナア といった安心感を与えてくれます。 いつかしら高野山で伺った話に、お四国の途中、山中で行くべき方を指さしたお大師さんに出あったということでしたが、このお大師さんに匹敵する存在感がこうした標石《道おしえ》には在ると思います。 施主・願主や世話人を始めとして、お四国の道に行じた人々の精神が籠っているからでしょうか。 三つの角のある所は、現在もやはり三叉路です。そうして、何よりもここは、第六十五番三角寺の足元にあります。 『此の道は、四国霊場第六十五番札所三角寺より第六十六番雲辺寺へ往く途中にあります』 徳右ェ門さんの標石の場合は、ア字大師像がある面が正面でしょうが、茂兵衛さんの標石の場合、一面にわたって、指印等の指示があり、いずれが正面か決めかねる事がありますが、応順打ちをしている面を正面としておきましょう。 (正面)右向指印
(向左側)向左指印
(裏面)
(向右側) 明治卅四年六月吉辰
ここの左側面にある《奥の院》というのが、前に述べた、仙龍寺・四国の総奥の院と称されたお寺です。 向左側面には次の如く彫ってあります。 毎夜御自作厄除大師尊像の御開帳阿り霊場巡拝の輩ハ御縁を結び現当二世の利益を定むべし 中務義教謹誌 《うれしきもの》がいつのまにか三角寺奥の院・仙龍寺の厄除大師ご尊像の御開帳の話になりましたが、今少しうれしきものを、茂兵衛さんの添句標石に探ってみましょう。 明治三十三年の標石。 『周桑郡小松町新屋敷字舟山の三島神社入口の十字路角』 ここは六十一番と六十二番への道しるべとなっています。 旅うれし ただ一寿じ尓 法の道 この句は読むのに随分苦労しました。 拓本もとったのですがどうもスッキリと納得できずにいたのです。後日雲辺寺境内の添句(同一句)を知るに及び、ようやく胸のつかえが一つ抜けました。 同じ句とはいえ、書体が変形すぎて「くずし字解読辞典」でもどうにも判読しかねていたのです。 この「旅うれし」の句を解読して後、南予の「以登嬉し」の句に導かれたのですが、この喜びは何物にもまさるものです。 へんろ道にしろ、文字のくずれたのを解読するにしろ、《まよひ》のとけた喜びは当事者でなくては味わえないものです。 さて、今一基うれしきもの。これが十七音ならぬ、十八音の句です。 山を踏みて うれしき毛の者 道しるべ 「山踏みて」で良かりそうなものですが「を」の字が入って「山を踏みて」の字余りの句となっています。 この方が、幾つも幾つも限りなく踏み越えてきた山々が想い出されて、それだけ余計に《うれしさ》が増すのかも知れません。 『愛媛県東宇和郡宇和町卯之町五丁目二二三、元居地又四郎氏宅の三叉路角 此の道は四国霊場第四十二番札所仏木寺より第四十三番札所明石寺へ往く旧遍路道と県道との三叉路角』 施主は「越前国(現在の福井県)勝山町・小林平三郎」。世話人は「宇の町・宮本友次郎」。 明治三十五年十一月吉辰壱百九十一度目の標石ですが、側面に『左 新道』という標示があります。 これはカット図に示したように、元居地さんの前の車道が、明治三十五年頃に普請され、三十六年開通したことに対応しています。 楠屋・広島屋・三島屋の三軒が宿をしていたそうです。今は三島屋さんの所は建物も残っていませんが、その少し東側に柿の木の下を通って旧へんろ道があったそうです。 昨年十二月二十二日に、同行有田氏と参った時は、雨模様のうっとおしい日でしたが、元居地さん(明治42年生)とお会いして往時の話を伺いました。 元居地さん宅は、楠の大木があったので、『楠屋』と称したのでしょう。 木賃宿でしたので、一泊20銭位だったそうです。これは昭和十年頃のことでしょうか。 ここら辺では、オゲヘンロ(良からぬヘンロ)のことを《ぐれへんろ》というそうです。 |