〜大日を求めて〜 大師=遍照金剛=大日 遍照金剛とは他ならぬ、真言教主・大日如来のことである。除暗遍明・能成衆務・光無生滅の三徳をつづめたのが、遍照金剛である。この遍照金剛は大師を形容しているといっても良いが、むしろ大師即遍照金剛ということであろう。遍照金剛な大師に帰依するというよりは、遍照金剛である大師にとつぐ、といった心構えで南無大師遍照金剛、あるいは南無遍照金剛と唱えたらよいのだろう。 然し肝心なのは帰依するとか、とつぐといった気持ちを越えて、〈南無〉の声を発することである。これがお四国の道を歩いていると、おのずから口頭に出づるようになるので、そこに四国遍路の有難さがあるようだ。 目に見えぬもの(不可視界)をいくらコトバで追跡したところでみえるようになるわけではない。とにかくも〈南無〉の声(心)を発する処に、そこにこそ同行二人に実があり、弘法大師の臨在ひいては大日如来の出現となるのではなかろうか。 御阿礼てふ 大和ことばに 流れくる 如来の光 此処に輝やく 噂をすれば影とやら、ということばがあるが、小生知人の父親という人で街頭易者などもやった人なのだが、この人がいうには、噂をすればゴザをひけ、ということである。今一つ聞いた噂に関する名句を忘れてしまったが、何故この噂ということばを持ってきたかというと、このコトワザに表現されていることは、噂をすれば人が来るのではなく、人が来るからその人の噂をするのだということがおもしろいからである。 現在はいうまでもなく情報社会であるが、この情報こそ噂以外の何物でもない。無論噂というものにも種々様々のものがあることは当然で、中には作り話ということもある。また文章などに記録されたものはそれだけの事実が残り、内容の真実性はともかくとしてそこには確かな噂が成り立つであろう。 しかしこの事柄が所謂霊的な不可視界のこととなるとアヤフヤである。これは無信心を標榜(かんばん)する人が、今この時代にお大師様がおられることを頭から否定する(相手にしない)のと、それとはなお深刻に師資相承滴々として伝えられ頭上に潅がれてきた如来の甘露水に集約される、不可視界からのメッセージをも、真剣に是認することが出来ず―可不可の問題点にすらアタックせずに、ただ日常生活に於ける、いわゆる仏教的なうわさに少しばかりの心を動かしているようでもある。 本来信心というものは自身の体験であり、他人のうわさはどうでも良いことである。一方、お大師をはじめとする先徳のうわさ(体験話)を参考としつつ、自分が身をもって真言秘密の諸相を感得して現じるより他はないと思われる。 さて話は転々とうわさの世界に遊んでいるわけだが、大日如来は何処におられるのかとなれば、先ず南無大師遍照金剛と唱える処にありとするか。 南無南無と 宝号となふる コトバこそ 如来不思議の 光りなりけり コツコツと 四国の道を 歩む身は 如来不思議の 姿なりけり かほどにも つたなきふみを はじかくも 如来不思議の 御阿礼なりけり |