〜大日を求めて〜 前回引用の、歴史とか此の世とかということは、あくまでも人類としての意識された限定によって考えられたものである。 所以出入幽顕 この句は古事記序文中にみられる。太朝臣安萬呂のことばである。ここの幽と顕の境が、他ならぬ人間の限定された意識といえるであろう。正確にはこの前記の幽顕は、神々の創造にかかわった、原初の幽顕というべきものであるが、今人間の立場に投影して、不可視(幽)と可視(顕)といったようにとらえているのである。 この幽顕の区切りがが出来てからの人類の葛藤〜或いは、自我に目覚めたアダムとイヴ以来の人類の歴史といってもよかろうか…は、此の世に浮いた一抹の花片でしか無い様にも思われるが、左に非ず、三千世界一度に開くうどん華(三千年に一度開き如来下生の際に開花するといわれる霊木)にもまして、大日如来の慈悲の霊光は、常住不偏〜あまねく此の歴史上の一コマ一コマに注がれているはず! このことは筆者の願望を超越して居り、その超越(幽顕の境)を貫く信こそ必要とされるものであろうか。古来信無き理解はあり得ないものだ。 ○等流身(とうるじん)ノコト さて、大日如来という存在はどこにおられるかというよりも、どこにあらわれたかを問題としたほうが良い様であるが、ここに等流身ということは、仏身の説にあることで、 九界の衆生を度せんがため、 其性欲に応じて菩薩・二乗・天龍八部等の身を現じて化益を施す身なり、 等同流類の身なるが故に等流身と名く… これは仏様が相手に応じて救うためにあらわされた身を等流身というのであろう。これはあくまでも化益を施す側に名づけられたものであるが、受手の方は等流身といわないようである。これは相対的な世間における表現(方便)として無理なからぬ事であろう。この世間から、見透し、見抜いて絶対界へと精神の上昇を試みる為には、ありとあらゆる(勿論有縁の)言語等を無限階段の素材としなければならないだろう。或いは妄想地獄に通じる階段やも知れぬが、大日の霊光のさん然たるを信じて歩んでいるのだ。 南無大師遍照金剛 ここで日夜口に唱える御宝号に就いて考えてみよう。わずか八文字のことではあるが、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経などに劣らず、真言密教の本意が込められている。 先づ〈南無〉というのはほかでもない、唱える私がナムするのである。ナムとは帰依とか帰命とかに訳されている。さらに帰依、帰命とはどういうことかとなるとまあ広辞苑でもひもといてみるしか無いが、ここでは〈帰〉の意味を調べてみよう。 @とつぐ Aかえる Bまとまる Cおもむくところ Dよりしたがう E死ぬ F神仏にたよる 〜漢字の語源・山田勝美〜 最後の神仏にたよるというのがいわゆる、南無の一般的な意味合いであろうが、〈帰〉の第一義が@とつぐであるのと同様、ナムする我々が大師にとつぐ程の心が湧き上がる処に同行二人の味わいが出るようである。これがありとあらゆるもののミオヤである、ふるさと(浄土)へかえる(A)、悟りの彼岸へ渡る橋ともなっている。 〈南無〉というのが簡単かつ確実な渡し舟・かけ橋であることは、法然上人や親らん上人等浄土系の人々によって現在にもなお行じられていることである。無論、我々大師の信徒も然りである。これは法華信者にても同様のことだ。 次に〈大師〉。弘法大師のことであるが、この二字を用いずに、南無遍照金剛と六字で唱える宝号もある。是非はともかくとして、現在のところ南無大師遍照金剛の長い方(八字)をお唱えする方が多いようである。また南無弘法大師空海様でもよいのであろうが、お大師様の大師たるゆえんは〈遍照金剛〉にあるので、南無大師遍照金剛とお唱えするのが妥当なところであろう。 |