先徳の御阿礼(三)
〜同行新聞 昭和55年3月11日 第82号より〜



 〜大日を求めて〜

 前回三十帖策子のことに触れていて気になったことがある。それは山主四世無空のとった行動についてである。この(高野山よりの)離山行動は、東寺長者観賢の要請に対抗してなされたことなのだが、これが為に高野山が荒廃し、二百年後の覚鑁(ばん)上人の登場となる。

 ところがこの覚ばん上人もどうしたことか、やがては、無空の時とは違った形ではあるけれども、高野山より離山(追放)のこととなり根来(ねごろ)の地に新義真言宗の礎をおくこととなったのである。この覚鑁上人離山に関連して、道範(遍礼絵図中弥谷寺の処にその名がみえる)さんも思いもよらぬ四国讃州はお大師様の故郷へ配流(といっても生活は悠々としていたものらしい)の身となった次第である。

 さて話を戻して、この覚鑁上人の高野山中心主義は、真然さんの遺旨(勿論弘法大師空海の誓願にもよることだが)をついだものとみなされていたのだが、遂に無空同様離山に至ったことは、歴史的背景、政治情勢等の問題はさておき、単純にみて両者(無空と覚鑁の離山)の相似は面白いことだ。

 いずれにしろ三十帖策子問題は真然が高野山に持ち帰り東寺に返還しなかった事に起因する様だ。これには大師御入定後、実慧、真済の後をうけて東寺長者となった真雅(大師の実の弟である)が元慶三年(八七九年)示寂。そののち十余年間、山主真然にまさる経歴の人物が居なかったことを考慮せねばなるまい。真然と同時代の宗叡(八〇九−八八四)も真然より七年早く亡くなっており、真言宗内の重鎮として真然の立場上三十帖策子を自分の手元で管理することとなったのも止むを得なかったことでは無かろうか。

 この良し悪しはともかく、人々の寿命というものが天命であれば、こうした問題もつまる処は人意に超越して神仏の密意が働いているとおもわれる。この法宝である三十帖とは別の、真言秘密の事相に関することは、またほかの経路(人脈)で(真然をを経ずして)現代にその余滴を伝へているようだ。勿論高野山に関しては、真然大徳より師資相承して伝わっていることもあるようだ。


 これまでは高野山山主について少しばかり述べてきたのであるが、次には我国弘法大師にいたるまでの系譜をたずねてみよう。

 第一祖教主大日如来より金剛薩□(た)。さらには龍猛、龍智、金剛智、不空。そして唐の恵果アジャリより我が弘法大師空海。以上八代をもって「付法の八祖」という。これとは別にさらに、善無畏三蔵、一行禅師の両名を、大日如来と金剛薩たを除いて「伝持の八祖」として崇拝する場合もある。
 ここで、何故に第一祖大日如来と二祖金剛薩□を除くかということだが、
大日、金薩の両祖は共に理想の仏身であって
此の世に出現された歴史上のお方ではありません。
といった見解があるからだろう。といっても、この考え方は一つの方便。俗に理解しやすいように説かれたものだが、わずか数行に説明された文句に注目して、大日如来という存在を眺めてみよう。

 一、除暗遍明(じょあんへんみょう) 智恵
暗(無明煩悩)を除いてあまねく明るく照らすこと。
 二、能成衆務(のうじょうしゅうむ) 慈悲
衆務(一切衆生草木等ことごとくのはたらき)をよい方へと生長浄化すること。
 三、光無生滅(こうむしょうめつ)  常住普遍の徳
無生滅とは、心経に説かれている、不生不滅と同じような意味で、
三世(過去現在未来)を貫ぬき十方にわたって、
如来光が常に遍ねく照り輝いていること。

 以上三つが大日如来の徳と称されている。ここで改めて先程引用した処の、大日、金薩についての文句を眺めなおしてみると、三の光無生滅の意味する常住普遍ということと、理想の仏身・歴史上のお方ではありません、という事が矛盾するかの如く見受けられる。理想の仏身という場合、確かに我々凡夫の理想とすべき到達すべき仏様としての一面をもっておられるが、次の「歴史上のお方ではありません」というのが〜この表現が物足りなく思われる。方便としては止む無いことだろうが、少しでも言葉の詮索をしながら、理想(実の処は実在している)の仏身をとらえてみようとしているのである。そうすると、歴史上ということばと、此の世ということばが問題となるようだ。



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