開導の鎮守社
これは昭和五十四年二月一日第47号から48・49号に連載したものであるが、何を書き連ねたものか記憶に浮かんでこない。しかし題目「開導の鎮守社」には、随分とナツカシサを覚える。真言宗と言うか、密教と言うか、神々のバックボーンなくしては日本での発展普及は無い物と観念しているからである。かと言って、慈雲尊者流の神道を研究したわけではない。短い粗雑な人生ながら、自分なりに体験した霊性=霊的人生がある。それを今此処に開陳するほどの勇気も準備もなしていない。せめて二十五年前の自分が何を語りたかったのか、いわば自己検証のためにも此処に掲載して行くものである。その時までに獲得した精神も今の自分にとってやはり確固とした変わりない普遍ののものなのか、今の自分にぶっつけて見るものである。白髪が目立つ年齢となったものの、精神的には何ら変わりない若々しさ、否=霊的存在を未だに 希求していることを再確認したいのである。彼のGOETEゲーテ曰く「もっと光りを」だったか、そんな気分の現在である。 H17.10.30 独行庵東台坊榮徳
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