開導の鎮守社 ~同行新聞 昭和五十四年二月二十一日 第49号より~

 開導の鎮守社 (三)

 前回引用Cの巫祝に託してという処は、弘法大師全集には、人体を現じてという表現になっていることは前回記した通りである。そこでこの二通りの記載は、どちらも高野丹生明神の(霊的)存在は認めてはいるのだが、その明神の本質、さらには大師との間柄、大師の霊性(霊的能力と称した方がよかろうが)を眺めるのには大きなへだたりがある。

 巫祝という媒介の第三者を間に入れるのと入れないのとでは、両者すなわち明神様とお大師様とのつながりの度合が全く違うようである。言葉を変えて、直接的と間接的の違いといってもよかろう。

 たまたま数日前、弘法大師全集に詳しいE師にお会いした際にこの示現と巫祝に託してのどちらをとるべきかをおたずねするに、巫祝(かんなぎ)というのは中臣流の解釈でしょうとのこと、我が意を得たことであった。

 この明神様の示現ということはいずれにしろ、肉親ならぬ、霊身の出現である。別にお大師様の創作でもなく、妄想の産物でもない。人と生れてきて、色んな人々との出会いがあるなかで、こうした神霊との出会いこそ最高の喜こびとおもわれる。これは当事者の喜こびもさりながら、余りにも宿命的な出会いである。たとえば念仏僧一遍が、熊野の本宮証誠殿に参籠して、権現の啓示を得て、遂に心の迷いを払って、念仏勧進の遊行に一層精進することとなったのもこうした出会いではなかったろうか。

 Cに、明神様の言として「昔人の世に在りし時…」というのがありましたが、このことはすなわち、明神(丹生津姫命)様が、人間としての生活をしていたことをのべている。何時頃のことで、どうした家系にいたかといったようなことは一切分からぬことであるが、唯、都合良いことには、お大師様が望んでいる高野の土地は、その明神様が在世中に、ケクニスベラミコトより賜はった処だという。とはいうものの当時の高野辺の土地の所有は当時の天皇の許可を要することだから、一応は上奏文を呈上するといった人為的な経過もある。人倫上は天皇よりの下賜であるのだが、霊的観点からみれば、その土地の神霊高野丹生明神よりたまはったことになっている。この霊的な面への対応として現在でも地鎮祭ということが行われているのである。

 高野の地をたまわった頃のお大師様の手紙に、お大師様の遠祖の人が、紀伊の国祖大名草彦の子孫にあたる云々というのがある。お大師様の遠祖のその又祖先が、紀伊の国祖大名草彦であるというのである。これは、高野(紀伊)の地とお大師様との血のつながりをのべたものである。あくまでも憶測の域を出ないのであるが、この大名草彦という人の在世か、或いはそれに近い世に、丹生津姫も人としての生活を営んでおられたのではなかろうか。

 しかしここで注意を要するのは丹生津姫というのが個人名ではなかろうということである。おおよそ啓示の神霊というのは、その啓示の内容が重大であればあるほど神霊の名を秘するようにおもわれる。秘するには、この秘するということをも悟られぬかの如くである。敵をあざむくには味方をもあざむくということか。こうした中で、お大師様が明神様の正体を如何様に把握されていたものか。真言密教の体系に幻惑されてその正体を見極め得なかったか、或いは見極めていたが故に秘中の秘として口伝の道に閉ざしたものか。


南無大明神

同行二人の道ひらき

神も仏も道の伴

迷はず歩む人の道

鎮守の森も見えてきた

両手合わせてつつましく

導き給え大明神




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