開導の鎮守社 ~同行新聞 昭和五十四年二月十一日 第48号より~

 開導の鎮守社 (二)

A:南山(高野山)を請うて、殊に入定の処として一両の草庵を作る…
吾が居住する時に、しきりに明神の衛護あり、

B:彼山裏の路辺に女神あり。名づけて丹生津姫命といふ…

C:まさに吾が上登の日巫祝(かんなぎ)に託していわく
「妾(わらは)は神道に在りて威福を望むこと久し、さきに今菩薩此山に到りたまへり。
妾が幸なり。弟子昔現人の時ケクニスベラミコト、家地を給ふに、
許町を以てす…こひねがはくは永世に献じて仰信の情を表す」云々

 A・B・C共に「御遺告(二十五條)」中の文句である。

 Aは、弘法大師が高野山に草庵を設けて今後取りかかる可き伽藍建立のことどもの想を練り、祈念を凝らし、或いは山上のおちこちを歩きまわっていた時のことであろうか。衛護というのは、文字通り護衛の意味としたならば、猛獣の害を排したということなのであろうか。或いは種々の霊的魔性のものの障りを防護排除したものか。また道先案内として行く手を導いたものであろうか。一両の草庵を作っていたとしても、これが現在地の山上であったかどうかはっきりとしない。或いは中腹の足掛りの良い所であったか、山麓の適地であったか。

 いずれにしても、この明神様が高野明神すなわち狩場明神と称されるお方である。先導の二匹の犬はこの明神様の御眷属であろう。あるいは伝説上の創作であろうか。

 Bの丹生津姫命、或いは丹生明神と称するお方であるが、この神様は山裏の路辺に在りとするのは、何か御神体があったということなのか、小さな祠でも祀ってあったものなのか。

 Aの明神は影の形に添うかの如く感じられるのに比して、Bの明神はその土地に固執している様で、お大師様の導き手というより、道の行く手でバッタリと出会ったという感じが強い。というのはお大師様が高野山に登ったその日に巫祝に託して語るからである。Aの明神様は巫祝という媒介者無しでしきりにお大師様を衛護したのに比し、この上登した日どうした状況での神託であったのであろうか。一体誰が巫祝の任に当ったものか。近在の童女ででもあったか。

 こうして南無大明神の明神様の身元をたずねつつ思案に暮れているのであるが、冒頭の引用は、昭和新纂国訳大蔵経真言宗聖典よりのものであり、別に弘法大師全集七・二四一頁には、A・Bの明神について「しきりに示現あり。名づけて丹生津比女高野大明神といふ…」さらに、Cの巫祝の処は、「吾上登の日、人体を現じて語った」と云い、さらに「昔人の世に在りし時…」となっている。

 元々、御遺告というものが、一応はお大師様の真意とは申されているものの<大師の口説門人の筆記なり>と釈雲照師が指摘された如く、真筆ではない。真筆ではないが、其の義旨は仰信すべしーこれが大師末徒のとるべき姿勢であろうか。

 浅学の身で原資料にあたってみることも出来ないで、憶測の域を出ないのであるが、それでもこうした資料上の相違は、その各資料の当事者の人達の神霊観ー明神様をどのように捉ているかということと、それによって霊的なものと人間との関係を、あらためて自分自身に問うことができる。

 この開導の鎮守さまとお大師様の関係は、すぐさま日夜世の為人の為にと精進しておられる弘法大師様と私達の関係に移写して考えられる。おなじく四国八十八ヶ所或いは西国三十三霊場を歩む人々と、それらの人々にあらわれる、おかげ、すくいといったことどもが、この明神様の活動と変りなく、お大師様が演じておられるかの如くおもわれるのである。

 いわゆる同行二人の同行とは、この開導の鎮守…高野丹生明神のよく努められたことではなかろうか。


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