駄家通信 12
寺院収入記録より A



 小生現住「東田大師堂」であるが、該文書では「大師庵」とある。昭和49年入堂したころは、確かに「庵主さん」と呼ばれていた。たまに「先生」とも呼ばれるが、やはり未だに「庵主さん」が多いように思う。
 「地蔵開眼」とあるが現存するのかどうかハッキリとしない。六地蔵にならんでこまめの地蔵立像があったのだがこれなのかも知れない。しかし別の地石に戒名が刻んであり、たしか御骨もあったので現在は墓地の方に納めた。この地蔵さんがもしかしたら古い(280年前)に開眼供養したものだったのかも知れない。


大師庵拡大

 大正から昭和時代には当庵は「上東田大師堂」と呼ばれていたようだが、小生になって、昭和53年の新改築後「東田大師堂」の名称にしたものである。なお地蔵開眼の布施は「一銭壱匁五厘」とある。
 個々の記録ではヤブイリ(16日)にかぎらず、様々な法要行事の事例も記録されているようだ。たとえば「一同六匁 銅山 護摩」とあるは、いわゆる別子銅山の安全祈願に護摩供養をしたことによるものであろう。別子銅山の山はてらからは南方向によく見えるのである。


銅山護摩

 一行置いて「入院祝儀 壱匁七分」とあるのは新居浜浦近くにあった慈明寺という寺から新しく住職として寺に入ったことへの祝い金である。
 おそらく同年の物か「施入覚」に続いて、「正月 一、百八拾目 年玉」「同六日 一、銀三匁弐分五厘 神宮寺 入院祝義」「同八日 一、銭三匁 岸上 仲間日待 宿三次郎」「同九日 一同三匁 東田右同断 宿善太郎」などと見える。



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