三、真念という人 真念は出自・経歴等が不明であるが、真言系の僧として弘法大師信仰に生涯を捧げた人である。その著『四国礼功徳記』の跋辞で、中宜という僧が次のように真念を紹介している。 真念はもとより頭陀の身なり……たゞ大師につかへ奉らんとふかく誓ひ、遍礼せる事二十余度に及べり……四国のうちにて、遍礼人宿なく艱難せる所あり。真念是をうれへ、遍礼屋を立、其窮労をやすめしむ。又四国中まぎれ道おほくして、佗邦の人岐にたゝずむ所毎に標石を立る事をよそ二百余所なり。かくのごとくの功、前来聞事なし。出せる所の道指南はおほくの人にたよりし、霊場記・賛議補の企も円就して流行にいたれり…… 「頭陀」というのは抖行脚の修行の意味で、衣・食・住の三種に貪着しない修行方法である。弘法大師空海も若年時にはこうした山林抖に励んでいある。讃岐にある墓塔と真念庵前にある供養塔によって、その死は元禄四年六月と推測される。 いつ、真念が初めて四国の地に足を踏み入れたかも不明であるが、大師追慕の余り二十余度に及ぶ遍礼(へんろ)をし、その体験から大師信仰の人たち(遍路)の為に、その便宜を図ろうとして次のような事業を行っている。 一、遍礼屋を建立 二、標石を設置 三、『道指南』を出版 三について言えば、まず貞亨四年(一六八七、翌年元禄に改元)に『四国邊路道指南』(略記『道指南』)を、次に先程の引用書『功徳記』を元禄二年に脱稿、三年に出版している。両者共に真念の筆になるが、この両著の間に寂本によって『四国遍礼霊場記』が出版されている。この『霊場記』は真念及び彼に同行し、札所の仮図を描いた高野山の僧・洪卓の助力にあずかって成ったものである。 以上三冊は、江戸初期の遍路の為のガイドブックとして画期的なものであった。殊に『道指南』は、その後江戸時代を通じて同書の「増補大成」と称するものが何度にもわたって発行されている。 因みに、幕末から明治・大正期にかけて四国編路を二百八十回した中務茂兵衛が編輯出版した『道中記大成』も、この『道指南』増補大成本に連なるものである。 俗家遍路が興隆した時点に、いわば時代の要請があったというものの、真念を初めとする大師信仰の人々の出版事業は画期的なものであった。 これら三部作の書誌学的な研究は近藤喜博氏が『四国霊場記集』(昭和48年、勉誠社)『四国霊場記集別冊』(49年、勉誠社)及び『四国編路研究』(57年、三弥井書店)に詳述している。 真念の建てた道標石(左下に記銘あり) |