さてわが村内から出顕した俵札ならぬ、縄綴の納札であるが、なんと予想に反して350枚近くもあった。そのうち出身県判別の札が200枚余。北海道および鹿児島からの札も見られたのである。江戸時代の納札では見られなかったもので、昭和と言う時代故であろう。 また年代識別札の数は多くなかったが、昭和四年から十年までのものがあった。やはり九年の大師御入定千百年記念の影響も少なからずあったと考えられる。 しかしこれらの縄綴り札の性格と言うか、受け取った事情が確認出来ない。当初は旧街道(辺路道)に出張って接待した返しの札かと想像したのであったが、今ひとつ確信が得られない。旧街道から当村内(I家)まで一キロ足らず、托鉢に入村してきた遍路さん達のもたらした物かも知れない。その両者の札と考えた方が良いのかも知れないのである。 また当家の事情として、昭和初期には祖父の死があり、祖母が苦労していたと言うことである。それ故にか遍路さんへの摂待に積極的であったかどうかは不明。まあ一般的に当時の農家としては、こうした納札を入手して屋根裏においておくといった、素朴な信仰が根付いていたとも考えられる。前回紹介の納経帳は隣人のもので、当村では概して辺路旅に出る人が他村に比べて多かったと言う程の事ではない。 村内の辺路信仰事情については的確な調査・記録はなく、今回残された札によって辺路事情を推測してゆくしかない。 こんな折りしも去る二月十八日、善通寺市の細川家に訪問する機会ができた。三十年くらい前からこのお宅にはへんろ札の俵があると知られていた家である。M氏の慫慂である。74番甲山寺近くでの細川家札については、たしか新居先生とかが早くから噂しておられるのを聞き及んでいたのだが、結局これまで縁が無かった、縁を結ばなかったというべきか、なんと今回香川県の調査記録が刊行されたという。 『善通寺市細川家の俵札』2013、香川県。3月31日発行とある。当主としばし辺路談義に花を咲かせ、気軽にその報告書を貸与され、興味深く読ませてもらったのはいうまでもない。世界文化遺産登録への動きが、こうした所にまで浸透してきているわけである。天保十二年1841から大正八年1919にかけての1372枚(含年代なし札)。埋蔵物発掘の手法のように、丁寧な調査記録で感心すること多々である。 今回小生の雑な取り扱いとは大違い、大いに反省させられる所であるが、それはそれとして……。 粗方のことは承知しているものの、細川家札の報告に啓発されて新たに考えて見なければならない事どももあるようだ。屋上屋を重ねるというのではなくて、些細な事であれ新知見があることには間違いないのである。 |