【へんろ札出顕(4・番外-2)】 「一冊の納経帳」 名号札 「名号霊場イザリ松・四国千枚通シ本坊」とあります。名号は「南無阿弥陀仏 法忍」の小札(カット参照)のことで、それを千枚束にしたものを信者に分かち与えています。ちなみにこの法忍の名号は関東秩父霊場十三番慈眼寺にゆかりのものと何かの本に説明してあったように記憶しています。 A=地蔵院。これは三度栗の旧跡として有名。 いつ頃からここの《三度栗》も有名にまったものでしょうか。現在はともかく以前には近くの山に三度栗の木がたくさんあったのには間違いないようです。近代に入ってのことでしょうが、由来縁起の版木があったのでしょう。カットのような札がありました。 旅の僧が腰掛けて休んでいる所で、女人が栗を差し出している絵です。僧の後には栗の木が描いてあります。実も見えます。由来文を読み下して見ましょう。 そもそも当山安置御本尊は昔高祖弘法大師、四国開歴の御みぎり、此所に御休息遊ばされ、その時一人の童子現われ、大師にこの栗の実を献上したまう。大師空腹の節大歓喜斜めならず、その時草木成仏の印を結び、一刀三礼の尊像を彫工し、この所に御堂を建築し、その時大師童子に告げて曰く、これより年に三度の実を熟す、正にこの童子地蔵菩薩の化身也、末代衆生のためこの由来を永続、謹て礼拝し不思議は世々に新たなり(但しこの栗は諸病の御符なり)。伊予国宇摩郡関川村木ノ川 三栗山 地蔵院 内容的には幼稚というか、矛盾というか、あまりすっきりとしたものではありませんが、徒歩遍路時代の遺産とも言えます。 現代のような交通事情ではよほど物好きでないとこのCのような小堂に立ち寄る人はないでしょう。すでに汽車便はあったのですが、新居浜駅ではなく土居駅から観音寺まで汽車を利用しているのではないでしょうか。それで木之川の地蔵院と土居イザリ松に参拝しているものと考えられます。 昭和九年、弘法大師千百年忌で、遍路信仰に乗じての小旅行を試みた記念の納経帳を紹介して見ました。(おはり) 以上『新居濱史談』第260号、1997年4月。拙稿「一冊の納経帳」より。 此れは今回の縄札(へんろ札)に混じってあった「地蔵院」の由来縁起の刷り物です。 この三度栗地蔵院の近く(木ノ川)には中務茂兵衛宿泊の場所(七本松のあった山本屋斉藤寅三宅および真鍋家)があったのですが、その当時に既に版行されていたものか、或いは昭和九年に大師の御遠忌にあわせて開版したものか決めがたいのですが、どうやら昭和九年ころのものと推定されます。 各地の番外霊場にはそれぞれに複雑な事情によって信仰発揚の手段がとられていったようです。 |