【川面凡児師のこと】 前文秋山真之稿はNHKのドラマなどで愉快に放送されていたし、松山での動きとして子規などと大いに持て囃されている。世間的に、俗世間的にジャーナリスティックなところは、それはそれとして、今一歩百尺竿頭を望んで考えて見ようとしているのである。 となると、どうしても凡児師のことに行き着くのである。 昨年秋サヌキの古物屋さんで『太陽』誌、第二十二巻第五号(大正五年刊)を入手したことも(宿命的)きっかけであった。この『太陽』という雑誌のことは知っていたが、手にとって読むのは初めてである。巻末の小説が森田草平なのも傑作であった。ついつい読み切ってしまったのである。「焼跡に立ちて」はのんびりとした恋の転末を語ったものであるが、やはりどうしても、らいてう(平塚雷鳥22才)との塩原事件を思い出す事になるからである。 おかしな気線が漂っているもので、今年の正月27日NHKで上野千鶴子・田中優子女史らが新婦人協会(市川房江)や青鞜発刊(らいてう25歳)について語っているのに出くわした…ダダイスト辻潤とか伊藤野枝、大杉栄とか神近市子?とかの錚々たる名前が浮かんでくる。東予縁の女(辻潤のことを腐っても鯛と言った)林芙美子など読んだことは無かったのだが、戦中(昭和16、7年)に四国遍路をして紀行文を残しているのには驚いたことがある。 しかしもうハッキリと書き残しておかねばならないだろう。それは昭和41年の夏、小生は成城町のらいてう宅を訪れたのである。背の低いまばらな白い板塀に呼びだしホーンがついてあったので、声をかけたのである。何の御用でしょうか?と言ったことで、実は『青鞜』誌が読みたい旨を述べたのである。早稲田大学の演劇博物館もしくは国立国会図書館にあるとの返事だった。それから数日皇居近くの国会図書館に通って青鞜誌を読んだのである。 別に女性解放運動等に興味があったのではない。らいてうの強靭な精神に感心したからである。横浜かどこかの禅寺に通っていた話し。東大学生の逐電?事件とかやはり塩原の雪中行でのことなど…個的精神の活動に感心するのであるが、戦中の活動には社会群として、少し?な部分があったと言う事にも、流石はNHKの番組だなと感心させられたものである。 ここまでくると高群逸枝の夫(アナーキスト橋本某?)のことやら四国遍路のこと。再刊本だったかにらいてうが序文を寄せていた事などが思い出される。 |