―平成25年春彼岸― 境内の伊予ミズキの花も満開となって、ボケやらユキヤナギやらも賑わってきた。 さて今日は「晩年の秋山真之」の話。 松山では〈坂の上の雲記念館〉ミュウジアムかしらで秋山氏について色々と展示されているようであるが、まだ拝見していない。道後の子規記念館には一、二度参ったのだが…。 秋山真之といえば、まずバルチック艦隊との海戦話を思い出す。「天気晴朗なれど波高し」だったか、戦艦上東郷平八郎のそばに立っていた(望遠鏡を覗いていたか)のは秋山真之と加藤友三郎の二人。加藤友三郎は芸州出身で小生の先輩に当たると聞いている。日本画家の平山郁夫氏とならぶ二大(大々)先輩なのだ。が、きょうは秋山氏の晩年を考えるのである。 今年に入ってだったかNHK番組で出口王仁三郎師が出ていたが、このなか少しだけ、神社の階段を上っている秋山氏の写真が出ていた。海軍(と秋山真之)の大本入信は有名な話であるが、何故秋山氏は大本を去ったのか?そして何処に行ったのか?何を考えていたのか?と言ったようなことが思案される。アルツハイマーで不如意なことになったという話は聞かない。 あまりクリアでないが死(大正7年?)の少し前「大正3年の写真」がある。 正面中央に座している。向かって右。左は「川面凡児」という人である。この川面氏の古典攻究会の発起者として発会式記念撮影(大正3年12月13日於水交社)に納まっている所だ。 古事記などの日本的なるものの攻究会なのである。この「なるものの」と言った内容がすごい。何故すごいのか?それは川面凡児という人が、とにかく靈魂について委しい。詳し過ぎるといった人なのである。旺盛な精神を粘菌類に傾けた南方熊楠もすごいー幽霊と妄想(雑念)の違い等についても体験談ありーのだがそれどころでは無い。途轍もなく霊学(体系分類実態など)について披露した稀有な霊能者だったといえる。この川面凡児師に、晩年の秋山真之は傾倒したと言って良い。その傾倒した信念は間違っていたのか。如何か? 晩年の秋山を見ずして何を語り得るのであろうか?愚陀佛庵の復製再建に迷走している今日、彼此両岸に通達する真実を考えても見るのである。 【250321】讀賣新聞 秋山真之生誕145年祝う 松山 日露戦争で参謀として活躍した真之に思いをはせた。 真之49年の生涯をしのんだ。 好んで食べたとされる「そら豆」も販売された。 「真之さんは郷土の誇り。多くの人に偉業を知ってもらいたい」 こんな記事が出ていた。 |