徳右衛門丁石の話

 その38−5


【武田徳右衛門の業績について】


 四 近在にある徳右衛門道標石(承前)

 「これほど」の内容であるが、一説に三百本の道標を立てたと言われている。果たして如何であろうか。

 寄付原簿には五十七番の石は記録していない。五十六番・五十八番・五十九番も原簿には記録していないないのである。何故であろう。原簿作成以前か、あるいは設置事業を終わってからのもの(前述、文化五年、四十一番龍光寺の石)もある。ここでは以前のものと考えられる。五十六番・五十八番・五十九番それぞれには、特徴として戒名が刻んである。中には徳右衛門自身の亡児のものもある。

 町石設置の発願は、徳右衛門自身の亡児の供養と子孫安泰を祈ってのことと言われている。天尊代舌の標石モデル図には施主名はあっても戒名のことは記していない。これからしても近在寺院への設置が最初になされ、やがて四国中へと拡大されたのではと思われるのである。当初は亡くなった霊を供養する気持ちが強かったのであるが、段々と大師信仰に目覚めて、他者(遍路)への援助に心が傾いていったのではなかろうか。

 しかし、それにしても膨大な事業である。一資産家のなせることではない。多くの協力者を必要とする。その前に〈発心〉が必要とされる。単なる思付きでできることではない。ここに墓誌銘の言葉が浮かんでくる。曰く、「高祖大師の深情を得」て、見ず知らぬ施主を求めた、と。単に徳右衛門が大師追慕の情を高揚させただけのことであろうか。大師側からの働き掛け―夢告などの霊示―はなかったであろうか。残念なことにはそうした伝承は残っていない。

 極端な霊示はなくても、多くの信仰家が偉大な業績を残している。霊感の強弱と、信心の強度とは単純には比較できるものではないのかもしれない。

 五十八番仙遊寺三丁〈打ち戻り〉地点にある徳右衛門には、二人の戒名が刻んである。

 慧観居士と静山入道である。慧観居士は朝倉水ノ上庄屋武田半三郎のことで、高野堂堰(タカンドセキ)と用水路の修築に功績のあった人である。静山入道については不明。願主は徳右衛門であるが、施主の所は「朝倉上村志」とのみ刻んである。

 五十九番国分寺は「横峯迄六里廿八丁」であるが、その下には「誠意為映旭童子」とある。残念ながら施主名は読み取れない。原簿にも記載がないので判らないが、いずれ童子の親であろう。

 以上のように、これらの標石は近在の札所と言う点と、戒名が彫り付けてあると言う共通点がある。


 【捕記】

 慧観居士の墓が無量寺にある。明和二乙酉歳三月朔日寂。武田半三郎信久。
 すぐ近くに静山入道「ア到応静山入道」、安永五丙申八月三日(亡)、俗名武田幸七信奥之墓もあった。
 五十九番の町石正面下部の戒名・映旭童子のことであるがやはり無量寺墓所に英旭童子の墓があった。字が少し違っているが同一人のことかも知れない。「寛政壬子正月十四日(亡)、武田九蔵」とあった。




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