徳右衛門丁石の話

 その38−4


【武田徳右衛門の業績について】


 四 近在にある徳右衛門道標石

 百聞は一見にしかず。実物を見てもらえば良いのだが、ここで近在の標石設置場所を提示して置こう。基本的には札所寺院を起点として次の札所までの里呈を示すのが第一の目的である。それ故に大概の札所寺院入口などにも立ててある。

 五十四番延命寺入口。五十六番泰山寺境内。五十七番栄福寺入口。五十八番仙遊寺は三丁打ち戻り地点。五十九番国分寺は石段を上った所。

 五十五番南光坊には見当たらないが、大三島の港近くに立っている。島の神社が本札所であるが、ほとんどの遍路が今治の別宮へ参り、五十五番の巡拝を済ましている。別宮の別当寺が南光坊であった。その別宮への徳右衛門標石は写真の通り「是より別宮迄七里」となっている。海上七里が昔から言われている距離である。

 五十四番延命寺にある標石には、「是より別宮迄一里」。施主は朝倉の四良右エ門。五十六番泰山寺。現在は寺の境内を入って左(西)側に立ててある。以前には少し南側の道路端にあった。寛政十二年の遍路日記の図会には道を挟んで二本の石柱が立っている。その内の一本。おそらく北側が徳右衛門標石である。しかし、現在は改刻移転されているのである。

 改刻点も多々ある。一は幟杭を固定するための棒孔を二ヶ所。もう一つは手印が三ヶ所である。それも札所番号付の丁寧な彫りと、稚拙な形のものとがある。標石といっても、二百年もすればさまざまな運命に翻弄されている。半分欠けて無くなったりしたものもよく見掛ける。

 五十七番札所栄福寺入口。これの施主は「於くら」と言う名前の女性である。女性で思いつくのは、阿波十五番札所国分寺境内の徳右衛門標石で、こちらは「女講中」が施主となっていた。ところが徳右衛門が残した町石設置事業の寄付原簿には阿波15番国分寺の石の施主名は佐古町五丁目にいた「奈良屋幸七」と記してある。施主名変更の事情は不明である。他にもこのような事態があったことであろう。これほどの事業がそう簡単に遂行できたとも思えない。



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