徳右衛門丁石の話

 その38−6


【武田徳右衛門の業績について】


 五 四国中千躰大師

 阿波の照蓮と言う人が徳右衛門さんに引き続き、まるでバトンタッチしたかのように道標石の建立設置の事業を始めている。文化六年から十三年にかけての期間である。照蓮千躰大師標石は小生現認数が七十基。実際には二百基位であったと想像される。百四十六・百五十四・百六十一番の番号を刻んだ石が見つかっているからである。

 徳右衛門標石にならって上部には大師座像を配し、四国中に大師像を立てて置こうとしたものである。千体とは狂気の所産とも思われるが、二百基でも大した事業である。ただし石質が壊れやすい砂岩なので現存数が少ない。

 三百年前の真念法師もおよそ二百基の道指南石(みちしるべいし)を立てたと言われるが、小生が四国中で確認したのは三十基余りである。明治大正期に活躍した中司茂兵衛の標石で二百三十基。このほか幕末期、四国中に「何百」もの簡易標石(手形石)を設置して歩いた五島福江出身の行者も知られている。果たして、徳右衛門標石はどれほど立てられたのであろう。



二番極楽寺境内、四国中千躰大師


註:本稿は平成九年度一九九八の『今治史談』に掲載したものである。今回HPに再掲するに当り、カット写真を増やしている。


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