徳右衛門丁石の話

 その38−11


【武田徳右衛門の業績について】


 九 遍路日記に記された標石

 徳右衛門の活躍した時代には、既に真念法師の建てた道しるべ石をはじめ、各地で盛んに丁石などが造立されていた。そうした状況の中で一寸した問題が起こった。徳右衛門の町石の里程と、案内書『四国辺路道指南』の記述と一致しない場合があるのである。

(平等寺)奉納、此日一日大雨也。
南少登入、此所より道しるべ七り、御堂下ノ立石ニハ五りと有…
―『四国中道筋日記』文化二年、兼太郎―より

 〈道しるべ〉と〈立石〉では二里の差がでている。歩く遍路にとっては大変な違いである。ここに言う〈道しるべ〉は案内書『四国辺路道指南』のことで〈立石〉が他ならぬ徳右衛門町石のことと考えられる。もう一ヶ所、徳右衛門の立石が登場してくる。

…八丁坂登り西寺(※二十六番金剛頂寺)奉納、
いをうぜんせい様(※医王善逝、本尊薬師如来のこと)有、此所より

道しるべにハ七リと有、御庭の立石ハ六リと有
―同右、引用―


 こちらは一里の差であるが、やはり大きな違いといえよう。どちらの立石も現存している。願主徳右衛門の石である。

 どうしてこのような相違が生じたのであろうか。案内書道しるべは元禄時代より前、約三百年前のもので、徳右衛門の活躍した寛政・享和・文化期とは百年の差がある。その間に新道が開発されて辺路道にも異同があったのではないかと推測される。

 四で紹介した照蓮の千躰大師標石のことであるが、形態的な特徴としては彫りの深い指印と大師像がある。そして四国中千躰大師と〈真念再建願主〉の刻字である。照蓮は何よりも真念の後継者を標榜していた。単に標石設置の事業と言うだけの意味ではなく、真念標石の在り方に共鳴している。ここでは詳しく触れないが、引用文のような事情もあって、照連は千躰大師標石を意図したのではないかとも感じられる。

 徳右衛門標石は町石の名の通り、「里数」すなわち距離を問題としている。ところが真念の場合、分岐点における「左右」の方向指示を第一としていた。この点に三百年前の真念時代と、二百年前の徳右衛門時代における辺路事情の相違が見られるのである。札所寺院の疎密・間隔にも関係したことでもある。

 距離を問題とした徳右衛門は平等寺(二十二番)から薬王寺(二十三番)の間が短縮されたことを無視できなかった。一方照蓮は、真念の案内書道しるべに忠実に旧来の道筋に千躰大師を建てている。

 むつかしく述べるならば、標石の原理的なこととして、距離的なこと(長さ)と左右などの方向的な側面があり、徳右衛門と照蓮の標石にもそのことが色濃く影響しているともいえる。


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