徳右衛門丁石の話

 その38−9


【武田徳右衛門の業績について】


一 同壱本宛三角寺へ上げ、上柏村庄屋峯右衛門

雲辺寺四り壱本、下柏村庄屋□蔵

同三り壱本、妻鳥村庄屋井川源五郎

二り又壱本、同人

同壱り壱本、上分村庄屋

同うん辺寺壱本、金川村庄屋

十三本雲辺寺坂口より小松尾寺先迄

和田の浜与左エ門


 六十五番三角寺から六十六番雲辺寺まで五里。里程に従えば五本でよいのだが、六本ある。ここではその理由はともかく、伊予側の村々の庄屋が関与していることが注目される。庄屋級の人は個人的に施主となる場合が多々見られたのであるが、石上げに際しては村人が労力奉仕をしている。村の公務と言う程のことではなくて、協同体的活動であったのではなかろうか。もちろん個人的差はあったであろうが、お大師様への信仰心も無視できない。

一 石上ケ之施主 四国中数々御座候


 わざわざ徳右衛門は右のように書き留めている。四国中に善人(ボランティア)がたくさんいたのである。

 町石にたとえるなら、根石の部分である。『町石勧進代舌』のモデル図によれば、「土より上、長ケ五尺。土より下、壱尺弐寸…」とあった。全高六尺弐寸として、壱尺弐寸(約二割)は地中に埋まっている。地上部には、次の札所への指示やら施主の名が刻んであるのだが、支えているのは地中の根石部分なのである。

 約二割という数量は絶対的なものとは言えないが、社会組織の円満な活動には、それなりのボランティア的な動きー積善養根ーが必要とされているのかも知れない。

 積善養根の火を付けたのは徳右衛門の発心であった。亡児供養と子孫安泰が直接の動機とはいえ、大師の臨在を確信し、信仰心を大きくはばたかせたのである。


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