徳右衛門丁石の話

 その22


 前回は明治時代の新道開通によって設置された茂兵衛標石の話でした。それと徳右衛門丁石の改刻、札所寺院名が別の寺院に改変されている場合の話でした。今回も同じく改刻の石についての話です。写真を見てもらった方が良いでしょう。バス遍路の人たちはおそらく目にしていないでしょう。歩きの遍路さんでも、先を急がず境内廻りを散策しないとなかなか目にする事はできません。


寺号石となった丁石

 六十三番吉祥寺の石です。現在は南口側か東口側から寺にお参りする人が多いと思います。しかしここには北側口の丁石が立っています。何故でしょうか?それは現国道が開かれるまでは、御寺の北側から御参りする遍路さんもいたのです。お寺の北西角には茂兵衛標石もあります。

明治三十六年百九十七度目


 新道(現国道)が出来る前、茂兵衛さんの時代には確かにお寺の北側に遍路道があったようです。しかし四国遍礼名所図会(阿波の遍路、寛政十二年1800)では東側に正門らしく描いて有ります。北口は裏門だったということでしょうか。そしてこの絵図の山門前には立石が二基あります。一基は徳右衛門丁石に間違いないでしょう。


吉祥寺境内図 門前の立石と茶堂に注目!

 現在は写真のように北口に立っています。「これよ里 前神寺へ廿丁」なのですが上部大師坐像下には「吉祥寺」とあり、寺号石の役割も担っています。これが後世に改変されたものでは無いでしょうか。内側に窪んでいるのでそのように推測されるものです。


 なお文化元年1803の『海南四州紀行』に次の様な記述がありました。

吉祥寺・・・茶堂、二重やね、二間に長四間四方一間ツツ外を出す、総て瓦なり。

裏門より入表門に出る也。


 丁石もですが、図会の向かって右側手前にある建物=二重屋根の立派なもの(但し吹きさらしの様である)が《茶堂》です。 - H20.04.29


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