徳右衛門丁石の話

 その21-3


 三、どちらも道知石の所での写真である。昭和五十八年(1983)と平成十一年(1999)、2000年かも知れないが、いずれも思いで深い写真だ。カラーの方は『遍路の大先達 中司茂兵衛義教』出版に際して高校時代の同級生直木(チョッキ)がいろいろと写真を撮ってくれたのである。その二、三年後だったか亡くなってしまった。ユックリと語り合う時間が持てなかった。南無南無南無…

 ここの添句は「その心唯一すじに法のみち」。「左新道」の指示がある。左側は平坦道、まっすぐには小さな峠道が待っている。菊間町誌によれば明治43年には佐方川以東も、つまり道知石地点の新道開通している。その後にこの茂兵衛標石は設置されたようだ。

 茂兵衛のことはこれくらいにして、徳右衛門石の改刻のことについて。


※1985昭和60年拙著『中務茂兵衛と真念法師のへんろ標石並に金倉寺中司文書』より


 茂兵衛標石二百二十基(阿波48、土佐21、伊予74、讃岐77)の刻字を解読して発表した本であるが、徳右衛門石であることをそれらしく分かるように挿絵にした部分である。向かって右の石の場合、正面指印を彫り出すために随分と深く削り込んであるのである。それで御大師様の下に翳りを書き込んでいる。こうしたものは現地に赴き実見するのが一番だ。刑事の常に言う「現場百辺」である。向かって左側の場合側面には「世話人 浅倉徳右衛門」の刻字が残っていたのである。と言うよりわざに追刻したのかも知れ無いのである。(推測・理由はここでは不説!)

 ここまで述べて来ると続いて言わなければならない事がある。松山堀江の五十三番円明寺からここ菊間町にかけての五基はすべて改刻(改竄)されているのである。それらの立石があることで、その道筋が遍路道であるということは勿論すぐに理解出来ることであるが、徳右衛門丁石の特徴である距離が次の札所では無く、別の寺院への里程にされたのである。時代の風潮というか、変わった風が吹き込んだのである。目くじら立てて論じるほどの事では無く、ただ改刻(改竄?)事例としては一考に値すると言うほどのことか?

 向かって左のいしは地図中のD地点、高城の旧道にあるものである。茂兵衛の道知石同様現国道からホンノすこし入ったところにあり、バス遍路の人も容易に見ることができる。


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