徳右衛門丁石の話

 その23-1


 土佐国から伊予国にかけての遍路道は、宿毛から深浦を抜けて松尾坂(峠)=土予国境を越えて小山(愛南町一本松)に出るのが原則です。寛政十二年の記録では「遍路通行当時一日に二百人くらい」、年間に二万千八百五十一人というのがあります。これは土佐国の松尾坂番所での通過人数の記録です。手形不所持などで抜け参りする人達の事は別にして、土佐国の番所を通過した遍路人の数です。当然に甲浦の番所で貰った土佐国内通行切手を松尾坂の番所に指し出した人数なのです。

 今回は番所の問題では無くて、道標石と遍路道のことを考えてみるものです。それは「篠山」参りの場合のことなのです。真念は『道指南』の中で、初遍路は足摺から一の瀬(真念庵〕へ打ち戻り篠山へ参るのだとの伝承を残しています。

 宝暦十三年(1763)の周英の絵図では、オオブカウラノ番所、マツオサカを越えてコヤマ番所の次に「ヒロミ」とあります。ここが四十番観自在寺と篠山の分岐点です。篠山に行かない人は問題ないのですが、篠山ニ行く人は先に四十番を済ませて二里を打ち戻って篠山に参ることになります。十八世紀から十九世紀にかけて、つまり徳右衛門が町石の設置に精出した寛政・享和・文化の時代には多くの遍路が篠山に参っていたようです。なかには山には参らず手前の蕨岡家(※戸タテズの庄屋の伝説あり)に参って観自在寺に向かった遍路も居たのかも知れません。

 実は今回篠山経由でイワブチの満願寺に出る道筋について考えているところなのです。こちらには案外と道標石が見当たらなかったのです。素朴な情感あふるる道筋なのですが、翻って考えれば遍路道としては寂れた道ともいえます。

 三百年前、真念の時代には真念御推薦のものだったのですが、近世時代を通じて遍路の通過人口が減少した街道なのです。街道と言うのもおこまがしいくらいです。最近伊予の歴史研究で目につくことに南予地方における中世時代のことです。あまり深く立ち入ることはできませんが、篠山信仰とイワブチの満願寺に連動する遍路道には中世の香りが漂っているのです。この満願寺には県の天然記念物に指定されている「二重柿」(子持柿とも称す)があります。県内では珍しいということですが、この渋柿が象徴的に中世の味を伝えているのかも知れません。



小山の国境石と町石



蕨岡家の門



満願寺の二重柿



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