徳右衛門丁石の話

 その20


 道しるべの立石、つまり四国での遍路道標石の施主について考えてみた場合、設置事業に邁進した願主の立場によって参加する人達の様相も変わっていることが分かってきた。前回述べた如く三百年前の真念の場合は大坂寺島を拠点とした信仰活動が背景にあって、近畿圏からの参加同調者が少なからず見られた。このことは当時の辺路三部作『道指南』『霊場記』『功徳記』の出版事情に反映していることで、やはり辺路文化は大坂を中心に展開しているというべきであろう。

 大坂が四国に近いということも勿論であるが、北前船による流通事情も垣間見えるのである。江戸の人たちの関与もあったのだが、それらに劣らず奥州人の姿が四国路によく見られるのは、出羽三山の活発な信仰活動と冬季に閉鎖的な生活を厭い、南国四国に歩みを進めた人達も多かったのである。話が大きく飛躍することになるのだが、六十六部、殊に「天蓋六部」と称される人たちは人口の多い東海道筋に溢れていた一方で、辺地四国路にも大量に紛れ込んでいたのである。

 一方徳右衛門の里丁石設置活動にはそうした四国外の人の関与は少なかったようである。それは伊予国内天領朝倉村の庄屋筋の立場にあったことも影響しているのではなかろうか?

 村内の辻などに地蔵尊の石仏を据える場合などは余り問題とならないのであるが、主要街道にそうした石造物を建てるには藩の許可をとらねばならなかった。具体的に個々の石造物の事例についての関連文書を見てみなければ成らないところであるが、今のところ徳右衛門標石の設置についての許認可文書は見つかっていない。

 では辻の地蔵尊や道標石類の設置許可の古文書例としてどんなものがあるのか、これも先行する研究調査事例もみあたらないようであるが、行路病死(行き倒れ死者)の事例を尋ねてみれば、わずかながら記録が残っているのである。徳右衛門の活動の周辺事情としてそうした事例を眺めてみるのも一興である。つまり街道と言う公共地における建造物の出現という問題が見えてくるのである。未だにそうした石造物の所管問題が起こっている。


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