徳右衛門丁石の話

 その19


 願主真念の標石(しるし石)の場合、それらの施主として四国内の人たちに限らず江戸や京大坂の人たちも少なからず名を連ねていたのだが、徳右衛門の場合はほとんどが地元の人たち(四国在)によるものであった。そうした中で四国外の施主は次のようである。

 ●備中窪津郡倉輔村 朝屋傳兵衛
 四十三番明石寺境内「これより菅生山迄二拾壱里」

 ●摂州兵庫東出町 遍にや小平
 七十八番郷照寺口「是より天の社 一里半」

 確認できたのはわずかにこの二基である。この人たちと徳右衛門の関係は不明である。あるいは遍路旅の時に知り合ってのことなのか、何かほかの理由があって施主として名を残したのかがわからない。そしてもう一基特殊な事情によるものと思われる石がある。高知県大方町入野浜の宮(加茂神社西北)に立っている石である。

 〇「こ連より足摺山江十一里」 願人豫州朝倉上村徳右衛門

 これの施主が「兵庫野村屋喜兵衛」と地元入野浦の「七兵衛」である。裏面には「為道教施主菩提」とある。これは現在も傍らに折損の標石、当初の徳右衛門のものが置いて有り、なんらかで折れたものの代わりに再建したものである。つまり徳右衛門の意志を継いで新しく建てたのである。地上部一七〇〇センチメートルもあり他の徳右衛門のものより背が高い。地元七兵衛の肝いりで兵庫の野村屋喜兵衛が金を出したものであろうが、これまた野村屋の素性が分からない。裏面刻字にある「道教え施主の菩提を」祈っているのが善意の言葉として輝いている。他の多くの標石も善意の現れであったが、「道教施主菩提」の刻字は徳右衛門たちの善行を改めて称賛したものとして感心させられるものである。



カット写真説明:
「為道教施主菩提」の刻字は遍路の為に便宜を図った善人達の菩提を祈ったものである。
手前の低い立石が、徳右衛門が当初に設置したもので折れて欠けている。


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