駄家通信 5
ラントウの言葉の歴史 1



 この「ラントウ」については、当初はある石造物について考えだしたのが始まりです。『郷土史談』第186号(1991、平成三年)に書いたのが初出でしょうか。十五年以上も前のことになります。―アア、あの頃は若かった!―とつい呟きかねない歳を経ました。

 186号では「家型塔墓碑」と題してラントウの語は使用していません。考察の対象としては大島の上野若狭守夫妻の逆修墓・小松町近藤家の墓・土佐柏島祖父江志摩の墓・讃岐仁尾町円明院の場合・新居浜のもの、などを紹介したものでした。

 この当時は家型またハコ型と称して、ラントウの言葉は使っていませんでした。では何時何処でこの自称「家型塔墓碑」が「ラントウ」と呼ばれていると言う事を知ったのでしょうか。こまめに日記録を残していないので分かりません。ただ『日本の石仏』No.44、1987年号にある記事で「豊島石屋形(ラントー)」の言葉に触れたように記憶しています。

 このころ高木河内寺の山根住職所蔵本に『牛窓春秋』とあるのを知り、早速コピーをさせてもらっています(平成三年三月九日)。山根住職と親しい岡山の僧侶・大島氏の送付して来られていた本だったのですが、「牛窓奈良屋とその墓碑」松本幸男稿に沢山の美麗な挿図と「藍塔」の言葉が出て来ます。この記事によってラントウは岡山に沢山あるのだということが分かったのです。

 『日本の石仏』No.44の記事は川瀬潔稿「岡山地方中世石造遺品と石工」というものでしたが、そのなかでキリシタン問題が述べてあったのに驚かされたものです。


・・・屋形またはラントーと呼ばれる高さ一メートル前後の屋根付の屋形供養作品である。調べるうちにその発祥はおおよそ一五九〇年頃と解った。デザインから見てこれはその頃、岡山県南部で布教していたイエズス会派フロイス神父らが、豊島で石工に技術指導をして普及させたものと私は断定している。―四十八頁―




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