駄家通信 6
ラントウの言葉の歴史 2



 この後「全国潜れ切支丹研究会」などに参加もしてみたりして一思案に耽ったりもしたのである。それから一九九四(平成六)年『新居浜史談』第229号から連載し始めたのが「果してキリシタン遺物乎?」です。これは234号まで六回の連続掲載稿となりました。小生としては当時の知見に及ぶ限りを書き留めたものです。

 なによりも別子銅山に「蘭塔場」という場所が良く知られています。しかしこの名称の語源は語られていませんでした。お門違いの同音呼称「卵塔」はたまさか耳にしましたが、納得の行くものではありませんでした。

 こうして東予市や小松町の文化講座で話したり、また史談誌などに投稿したりしていたところ、永年この言葉について考えを巡らしていたという未知の人から電話を頂きました。「御ラントの畑」という言葉についてでした。このけんは早速『新居浜史談』第309号に発表したのは平成十三年のことです。

 こんな按配ではや五年を経過した昨年の『地方史情報』岩田書院発行にラントウの言葉を見つけその本を注文しました。二〇〇六年三月発行の『社寺史料研究』第八号所載、研究ノート「賽の河原に描かれたラントウ」水谷類稿が目的のものです。とうとう確固とした中世の史料に出会えたわけです。研究者の間では良く知られている「熊野観心十界曼荼羅図の中に描かれてあるのです。

 早くから中世的信仰遺物と考えていたのですが、これまで小生は「潜れキリシタン」的方面から考察をしていたので、これの実態図によって大いに啓蒙されました。かといってキリシタン的要素は今もその意義が失われたものではありません。

 水谷氏稿によれば、文献上の初見は『看聞御記』の「檻塔御廟」「亡母檻塔」で応永二年1417・永享八年1436で、どうやら一四世紀には遡らないものと考えられているようです。




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