遍路と原爆(四)



 画伯の仏教信仰についてはその画業に即して語られるべきことが沢山あるのだが、ここでは事実、実在したお不動さん。すでにその形、木像か金物か、はたまた絵像であったかどうかも感知しない。昔話として原爆投下近くのお寺にお不動さんが信仰されていたという、この事実に注目しているのである。

 あの日、八月六日、住職は出征していなかった。外地にいたのか内地に帰っていたのかも知らない。分かっているのは当時の西蓮寺の代務住職が「山本空外」師であったということである。このことはこれまで空外師関係の書物で記事を目にしたことが無い。故に新聞記者にこの問題、事実を空外師に尋ねて原爆特集号の記事にしたらどうかと打診めいたことをしたこともあるのだが、もはや適わぬことと相成ってしまった。

 小生は空外先生のお宅に伺ったこともある。たしか川本剛空君と矢野司空君と一緒だったか。二人とも先生の弟子として浄土宗寺院に入り、大いに活躍しているところだ。しかし小生は浄土宗に行かず真言僧として今に四国の村の大師堂住まいの身である。そして市の学習講座で「空海前後」について語るのであるが…

 何故真言僧になったのか。先祖伝来の信仰心の結晶であろうが、空外先生の月例講話(於:広島妙慶院)での先生の話が強く影響している。元々霊的なことにつよく感応していた自分であるのだが、シュトルムウントドランクト(疾風怒濤)な青春時代には空外先生の話がよく身に沁みていたのだ。



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