遍路と原爆(二)



 事が事だけに閑話休題。チョット一服の真似事もしておかないと、足元にもたどり着かない。祖父の五郎なんか…といった懸念もあったからである。実は平山画伯とは面識は無いのだが、中学校の先輩に当ることは早くから知っていた。広島の海田かしらにあった松本真氏(この人も先輩)主催の画塾に来られて塾生の指導に当られたことがあった。その後東京芸大に進むことになる村上潔から聞いた話だ。

 『業火の街「生きよ!」不動尊』―平山画伯、よみがえったあの日の光景―という新聞記事がある。

 〇読売新聞、1990(平成二)年八月七日号、「大空襲から45年・焦土の戦争展4」で画伯の「生変図」が大きく取上げられている。たしか二、三年前に生口島の美術館で絵葉書を買っておいたのだが今は見つからない。新聞の白黒画面を紹介しておこう。

 この絵を見た当初、「漫画チック」というコトバが出てきたように記憶している。崩れ落ちた原爆ドームと町並みを画面下に描き劫火が広がっている画面右上にキョトンと不動尊が「あらぬ方向」を凝視しているではないか、と表現しておこう。


【喜代吉五郎描 『劫火を見た』NHK編昭和五十年(1975)】



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