異域地巡礼の納札研究
善通寺紀要 第18号より



 五、『若山家所蔵 熊野街道善根宿納札調査報告書』のこと (1)


 これは平成二十二年、熊野市教育委員会発行。三重大学人文学部塚本明研究室と熊野古文書同好会の共同編集(※17)。五千枚に及ぶ納札目録を提示したものである。その分析については、縣拓也氏が担当、「熊野街道沿い善根宿納札に見る巡礼の様相―若山家所蔵納札群の分析―」がある。

 その中で参詣目的地別分布によれば、西国霊場地域の熊野街道なのに四国巡礼(遍路)を標榜併記した札が少なからず含まれていることなどが分析されている。確かに四国での納札群の中にも西国や秩父坂東の巡礼札を眼にすることがあるが、その割合は少ない参詣目的地別分布の中「六十六部」が七パーセントとある。この中身にも興味が湧くところだ。また国別分布や同行人数分布、男女別分布についても考察されている。

 今回小生が気になったのは、《阿弥陀信仰》による札の様相である。熊野と言えば一遍上人の名号札賦算の事があるし、また徳本上人のことも紀州出身ということで何がしかの影響が考えられるのである。阿弥陀信仰札といっても、まずは六字の名号「南無阿弥陀仏」を主文とするもの、宝号(南無大師遍照金剛)を併記するものもある。名号はなくとも阿弥陀仏像の絵札の場合もある。かな書き、カナ交りの名号もあったりする。その他近在の御寺かしらの配札・守札も見られたが、これらは数に入れなかった。善光寺如来三尊の朱札も数枚見られたが同じくいれていない。

 計百三十七枚。筆書き四十四枚、版刷り八十九枚。筆書と版刷りの交ったものもあったが、ここでは名号などの主文で判別している。分別不能札も少しあった。

 名号の特徴的なものとして徳本上人流の曲線でかかれた字体と、いわゆる利剣名号と称されるもの二点が際立っている。なかには梵字で書かれたものもあった(一例)。結果前者が二十三枚、後者利剣名号は九枚。この二者共に徳本上人の信仰活動で用いられていたのだが、正確な比率はともかくとして、紀州から東海・関東にかけて建立された徳本流の名号碑塔(二百基を越している)としては、圧倒的に前者が多くて、利剣名号塔は少ない。

 納札群にあらわれた《阿弥陀信仰》のうち、徳本上人に関わる名号札が約四分の一。その特異な字体によって呪術的効果が期待された所であろうが、この数値は少なくはないが多いとも云いかねるものである。特異な字体だけにたよらず、仏像の絵姿による札、つまり観音菩薩や地蔵菩薩さらには弘法大師などと組み合わさった別の字体の名号札も多数存在するからである。

 阿弥陀信仰と言えば一遍上人のことや隔夜信仰のことを考えざるを得ないが、古歌に「空海の心の内に咲く花は 弥陀より他に知る人は無し」があるとおり、辺路信仰のみならず弘法大師信仰上庶民の動向に鑑みても無視できない問題がある。

 密教学的には覚鑁上人以降の葛藤があり、近世真言僧にとっても大きな問題であった。(※18)。

 結局若山家納札群に見られる阿弥陀信仰については、今の所、徳本上人流字体の名号がかなりあったという事程度しか語れない。


※17 平成二十三年来堂の藤澤久弘氏に教えて貰い、さらに送呈して戴く。一年後尾鷲の三重県立熊野古道センターに二度ほど参り、データーファイルをカラーで印刷した冊子を閲覧。
※18 極めて難解であるが、覚鑁『五輪九字明秘密釈』・明有『光明真言袖鏡』・蓮體『光明真言金壺集』などがある。明有の袖鏡については善通寺教学紀要創刊号拙稿「光明真言読誦信仰について」及び同紀要第八号「光明真言袖鏡 全(伊予三島市河村家 文書)」。




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