辺路独行 続編1



 Y君の話では、高校時代に小生と一度話をしたことがあるとのことであったが、小生の方はトント忘れている。それがたまたま小生の叔母が、同窓会でY君のお母さんと話をして、小生もY君も僧侶となって他国に遊んでいるということが分かったらしい。

 それで我が子の身を案じるお母さんから、一度Y君にあって話をして欲しいとの依頼。早速に (昭和53年)十月上旬、五日か六日ころ、小生が新婚旅行の際、丹波篠山の曽地奥(そじおく)という村にY君を訪ねた次第である。

 小生は真言宗で得度しているのだが、Y君は曹洞宗である。その後再び小庵に来たときの話では、本山の永平寺で修行していたとのことで、瑞応寺 (新居浜市)の方丈・楢崎一光師とも面識があるとの由だった。また当地新居浜には住友の会社に叔父さんが勤務しておられ、さらには山陰の寺でこちらの人と一緒に生活していたこと、その上大阪で針鍼(しんしん)を習った時、やはり新居浜の女性がいたということで、その上に小生が居付いているというので、できれば気候の温暖なこちらに庵を構えたいとの意向であったが今は何処の思案雲。行雲流水(こううんりゅうすい)の旅はまだ長い様だ。

行きてなお 心の所在(ありか) 求め得ず

悩みし日々を 如何に過ごせし

幻の 如く過ぎ行く 日々数多(あまた)

明日は明日の 夢を描きて



〔二十〕

 さて、辺路行を終えて現在地・新居浜市東田へ居付いたのは、二ヶ月後の昭和49年9月15日、火曜日であるのだが、その前に、小生がお四国を巡拝した時の衣について述べておこうと思う。

 とりあえず、その白衣に書き込まれてある内容を記してみよう。

 まず背中中央に、

 ・本尊石鎚大権現薬師如来諸仏光明
 (ただし、大権現の処は、大観財現とある。)

 次に背の右肩側には、

 ・一心に祈り奉る香のけむりわかすか成れ共も天に通じて天よりあまくだらせ給ふ其の時大日大証不動明王五色ノ雲の中よりも御身すがたを現せあら有りがたやくぢから不動や万年倹をさかばにかやせばあうんの二字が火へんなってなわめてまんだらそわかの浪があらくれ古んがらどうじがうかべに上りてせいたかどう子が受取り給ふて悪病諸病もからめ取っては三ツ石河原のせいはにたたり祈れや祈れやかなうぞかなうぞさんげさんげ六根生浄一より二けん三界四はらい五三の巻物六根生淨七なんそくめつ八方からめて供物をととのえ十分祈れば神はしょじょう成さしめ給ふほんぎゃく本地大古ま供養東は日の本帝照皇大神宮かしまにかとり池須の神々身体日りん南は大道せいうんせいし北わねの国五雲の大神西は天笠三世の諸菩薩八百万神天もかんのう地神も納受なしめたまう。

 以上が右肩半分に書き込んである。都合九行であるが、その右側には南無阿弥陀仏がまたびっしりと書き込んである。九十ほど。

 内容は現在の石鎚の行者さんらの用いる文句とよく似たコトバがある。正確なものでは無い。出だしの部分『一心に祈り奉る香のけむりはかすかなれども、天に通じて天より天くだらせ給ふ』というのが、《行者鎮家宅屋地悪病祈祷秘法》という経文の始めにある。

 参考にこの経文のある【石鉄経】の奥書きを見れば、

 昭和六年三月三十日発行

 高知県高知市江ノ口百軒中ノ丁百七十七番地

 真言宗大本山修験道

 三宝院醍醐派透覚予言加持法 吉田法顕坊

 帝国霊感術教伝会

 とある。また表紙みひらきには、

 石鉄山土佐中白講社大先達

 石鉄山講社大取締

 石鉄山信徒総代 大徳院 吉田信岳坊

 土佐一宮白岩山貫主

 久礼野光明山貫主

 とあり、ちょっと現代の若い人 (戦後生れの人)に限らず、一般には奇異な感覚をもよおすような世界であるが、こうした修験道の息吹の遺産として、小生所持の衣はおもしろい衣である。

 次に、左肩半分には七行に、やはり六字の名号『南無阿弥陀仏』を右側にびっしりとそえて

 ・一に古んが二にせいたか三にくりから四天が童子、薬師に使者は不動尊。頭には白き連げをいただき、水はのなみたたみ、かんまん大ばんじゃくをふみしずめ、後には大かるへんのふんぬのいとくを現わし内心にあわれみをたれ給ふ。りょう眼には日月を見ひらき、口にあうんの二字をふくみ、りょうすいのきばには天地和合とかみしめ給ふ。御身には九丈まんだらのけさをかけさせ、左の御手に三ぞう半のなわをたずさえ、右の御手に利けんをたずさえ、この利けんに一々神諸、古もらせ給ふ。きっさきわ岩清水やき、久利迦良不動明王、つばの丸さわ十五夜のまん月を表す。ふちと頭はいんようの二つ。右のつかぶし三十三、左のつかぶし三十三、是れ日本六十余州大小の神ぎ也。 ○○謹書 開徳院祈祷所部

 以上であるが、最後の角印の院号・開徳院というのがはっきり読めない。

 この経文は、俗に『不動の剣文』あるいは『不動尊剣功徳の文』ともいわれている。その後半五分の一が省かれている。しかし行者さん達はほとんど口伝で暗誦してきたものであろうから、誤字はもちろんのこと、それぞれの系統で多少は経文の文句も変わっていたようである。

 名号・南無阿弥陀仏の数は、約百二十。なかには南無阿弥で終わっているところがあれば、南無阿弥陀仏陀仏、とダブって書き連ねているところもある。

 次に左前半分。まず南無阿弥陀仏の名号がおよそ百五.経文は般若心経、仏説以下途中欠落した部分や誤字もある。

 エリから下。同じように名号が三十一。梵字少々。

 左前には、

 大日大証不動明王 当年三十二才 女 石山

 とあり、その下に三角形を二つ重ねた星印(六ぼう星、かごめ)が書いてある。

 右前には、

 妙法

 十一面観世音薩納奉眼病平癒祈願……

 全身

 「……」の部分は小生が塗りつぶしており、今となっては判読不能。その下には九字の図がある。

 次に右前部分。南無阿弥陀仏の名号がやはりたくさん書き込んである。およそ百九ツ。それから六行に書き込んであるのが次の文句。

 干時弘仁九年の春、天下大疫す。ここに帝皇自ら黄金を筆端に染め、紺紙爪掌 (そしょう)に握って、般若心経一巻を書写に奉り給ふ。予、講読の撰に範て経旨の宗を綴る。未だ結願の詞を吐かざるに蘇生の族(やか)ら途(みち)に佇む。夜へんじて日光赫々たり。是ぐ身が戒徳に非ず、金輪御信力の所為なり。但し神社に詣せんともがらは、此秘鍵を誦し奉るべし。昔、予、じゅ峰説法の莚(むしろ)に陪(はべっ)て親(まのあた)り是の深文を聞き、(あに)其の義に達せざらんやまくのみ。

 とある。これは弘法大師空海撰、般若心経秘鍵の末尾に付け足してある、有名な文句である。

 次に左袖後。南無阿弥陀仏が三十六。それと十三仏様のうち、十番目の阿弥陀様までの名前と御真言がかいてある。

 ・不動明王 のうまくさんまんだ ばさらだんせんだ まかろしゃだそはたや うんたらたかんまん (以下略)

 御真言の短い、地蔵・弥勒・観自在・勢至菩薩の下には梵字が書いてある。

 さて次に、袖の左前には南無阿弥陀仏の名号がびっしりと八十四ほど。それから右側の袖は、後ろ前共に名号が書き詰めてある。その数およそ百八十である。

 以上で小生独行中に使用した白衣の紹介をしたわけであるが、なんと 南無阿弥陀仏の名号が約七百四十七も書き込んである。その他の経文類も今まで記してきた通りであるが、誤字脱落などはともかくとして、よく書き込んだものである。

 先程、南無阿で切れたり、南無阿弥陀仏陀仏とダブッていると書いたが、これはどうやら、書く時の順序によるものと思われる。字配りの構想上の不手際であろうが、これもまた止むを得ないことであったろう。

 この白衣は、もともと 32才の女の人の為に作られたものであったが、その人は天理教の信者で、お大師様の道など歩く必要はないというので、それで20年後、小生が譲り受けてお四国を歩く事になったのである。

 歩きはじめても当分のうちは、札所で着替えて拝礼し、歩く時には他の着物をきて歩いたものである。今にしてみればおかしな事であるが、やはりこうした衣を着て歩くのが恥ずかしかったものである。

 身なり としては手っ甲脚半の準備もなく、合成ゴムのキャラバンシューズに登山用のリュックを背負って歩き、杖を持っているのでようやく遍路しているな、と分かる程であった。



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