辺路独行 7
札所六十五番三角寺〜八十一番白峰寺



〔十五〕

やがてくる 新居の山々 見送りし

涅槃の国へ 心勇みて


 六月二十七日、木曜。五時半起床、同五十分出立。六十五番由霊山三角寺には昼前に参ることが出来、次の番外札所・椿堂に向かう。中途飯盒を炊き、その飯盒の八分程も大食する。雨がシトシトと降っていたのだが、雨具も出さずに濡れてゆくうちに、昼過ぎには雨も止む。

 さて十三回に記したる例の久万タクシーに、三角寺より下山中に出会い、言葉を交わす。椿堂には十五時半に入る。まだ日も高かったのだが、善根宿をいただく。

 当時の住職さんは、現在東予市かしらに居られるとのことだが、奇しき縁で一度法事に御一緒したことがある。

 堂のかたわらにて飯盒を炊いて夕食にする。おかず(野菜をいためたもの)一皿にお茶の接待があった。近所の子供数人が遊んでおり、五、六人、水掛地蔵さんの前で、

ゆーびをくわえて ちゅんちゅくちゅん

 とか、

もういいかい まあだだよ

 などとはやしていた。境内は狭い所であったが、小高い処で、夕焼けが映え、椿の木、銀杏の木なども美しかった。

 先程も親は手を合わさぬのに、連れの幼稚園児が、お大師様に手を合わせていた。まことに好風景であった。

 六月二十八日、金曜。夜半(一時過ぎ)夢に叔母のNと高校時代担任だった佐伯先生が出てこられたのは何の暗示であったのか。この辺路中、かなりの夢をみた。大抵は雑夢のようであったが、この夢は感じの良い夢であった。

 五時半に起き、朝の勤行に同座させて頂く。七時出発。雲辺への直登ルートを避けて、心引かれる箸蔵寺の方へ参る。十五時着。これより下りの道が仲々はっきりとせず、田畑のなかの小道を抜けて、たずねつつ行くと、ようやく落(おち)という処に出たのが十六時十分。ここで母娘連れに道をたずねて、キャンデーの接待を受ける。

 国道に出てから下をのぞくと汽車の駅が見える。丁度壷の底の如き土地で、その名も坪尻という。上り下り共にすぐにトンネルがあり、近くに川が流れており、駅のみ平地である。単車で通う道はあるが、軽四輪車も通えぬ小さな駅である。

 此処で飯盒の残りを食して、また炊いておく。とかくするうちに十八時頃上り多度津行きの列車から多くの学生が下車する中に、小学生らしき子供が小生に興味をもったものか、待合室でブラブラ遊んでいる。小生が話しかけてみるに、ここに泊まるのなら、第一待合室の方が良かろうと言って、戸の鍵をハリガネでつつき始めたのである。ガチャガチャと試していたのだが思うようにいかないので、小生がスプーンを出してやると、簡単に戸を開けたのである。

 驚きながらも小生は喜んでこの室に入ったものである。工夫などの使用するものであろうが、畳に布団(フトン)があったのは有り難かった。名の示す通り、谷底なので夜は冷え込むことだろうと懸念していたので、誠に助けの神とはこの子供のことであろう。

 菓子の一つでもお礼にと思ったがもちおらず、残念なことであった。住まいはここより二十分くらい奥の、コミノという処だそうだ。無断の使用は鉄道法かしらんに触れることであろうが、別に気にもせず、おだやかな一夜を過ごしたものである。

 これまでに歩いた日数は三十日と半である。

大発心(ほっしん) 修行急ぎて 菩提の地

ゆるりゆるりと 涅槃に赴く


 六月二十九日、土曜。朝四時半起床。夢にS君が車に乗って来る。このS君は前に記した十三番十八番札所で同宿した大阪の人(二十歳位)である。S君の何がしかの念がこちらに感応したものか。さて五時出発。五時五十分野呂内橋通過。九時半雲辺寺着。食事をここでして、十一時出発。処変われば品かわるというように、野呂内の店でナットウを求めたのだが、この近辺では余りナットウを食べないとのことで、少し黒ずんだ干しナットウを売っていたので、これを買っておかずにする。その序でに接待に冷たいものを頂く。

 十三時四十分、六十七番小松尾寺着。六十八番神恵院、六十九番観音寺。当地は二ヶ寺の札所なので手間が省(はぶ)けたようなものの、読経回数が多く気疲れしたものだ。昨年(昭和五十五年)今治の人らと車でゆき、歩いた時分にはそれと気付かぬエンマ堂があるのに興をそそられる。またその隣りに祀っておられる像(女人像?)が色白く美しかったのが思いおこされる。

 七十番本山寺には十七時五十分着。それからしばし歩いて、二十時に高瀬駅に入り込む。近くの風呂屋にゆくと隔日営業ということで、その日は丁度休日であった。やむを得ず駅待合室の木製のベンチに寝転ぶ。

 阿波牟岐駅では待合室より追い出されコンクリートの路上に厚紙を敷いて寝たのであるが、当駅では待合室で寝込むことを許される。ただし土曜日故か、夜遅くまで近在の若者が単車で駅前を走りまわる音に悩まされる。また夜行列車の通過で目覚めたのも二、三度ある。


〔十六〕

 六月三十日、日曜。五時過ぎ起床、四十分発。七十一番弥谷寺には七時に山門に到着する。早朝から湿っぽく雨が降ったり止んだりの空模様。このお寺は近在の死者の集う処で、多少天気のせいか陰気強き処である。

 一老婆あり。話しをすると、法華の行者さんに『ご先祖さんに迷っている人がおられるから、娘の縁談は取り止めるように』といわれ、先祖霊の供養にこの弥谷寺に参ったとのことだ。

 諸堂を巡り、下の茶屋で飯盒の御飯を食す。当所は俳句茶屋なれば発句少々。

雨降りに 主人(あるじ)は来ぬか 俳句茶屋

空梅雨に 死者も喜ぶ 供養雨

山門に 雨におわせて 風わたる

年経 (ふ)れば 人も仏も 消えてゆく


 七十二番曼荼羅寺。小雨が降っていたのにもよるが、清楚な処であった。不老松は見事なものである。西行と関連して笠の忘れ物の伝説があったが、どうした具合か、小生数珠を忘れ、七十三番出釈迦寺の帰路にまた立寄りて手に戻る。

 七十三番出釈迦寺。奥の院に登り、さらに我拝師山(がはいしざん)の頂上にまで足をのばす。雨が降ってけぶっていたが、良い眺めであった。昨年(昭和五十八年)車で参ったときに、ここら近辺歩いた時の地理と随分に感じが違うので戸惑ったものである。

 七十四番甲山寺。ここは毘沙門天の岩窟がある。ここに老翁が出現したという話は、四十一番稲荷山竜光寺に出現という老翁を思い起こさせる。ここより先程登った我拝師山もよく見える。

 七十五番善通寺。例の弥谷で話した老婆と甲山寺で一緒になったので、善通寺まで話しつつ同行する。境内で餅を五つ食したのを記している。

 七十六番金倉寺。 境内に四十がらみの男がおり、リュック、菅笠などを堂の縁において休んでいたのを、何者なるや多少いぶかしき風体なりと思ったのだが、人のことは言えぬもので、小生道隆寺への道中、農家で小生のことを言うのかルンペン云々の言葉が聞こえて笑い声がしたのである。

 七十七番道隆寺。十五時半着。読経しおわると近所のおまいりにこられた老婆が、「きれいなお経(読経)ですね」と話しかけてこられたのには、驚きかつ喜んだものである。

 さて出発しようとすると、傍(かたわ)らに小堂がある。眼の字を半紙に書き連ねたのがたくさん張ってある。昔より眼の病によく効くお堂で、内側には五輪の石塔がある。丸亀城主の墓の由。

 七十八番郷照寺には十七時半着。随分と気張って歩いたものである。よい具合に通夜堂があった。小じんまりとして綺麗に片付けてあった。近くで飯盒の火をおこし、夕食を取る。それから衣の繕いを為(な)し、書き物を為して寝入る。この日はなんとはなしに裏山忠次郎さん(室戸佐喜浜で最初の善根宿を下さった老人)のことを思い出したものである。小生の道の行く末を案じておられたものか。

 七月一日、月曜日。まことに皮肉なことに、畳やフトンがあるのは有り難いことなのだが、夜分の蚊のひどいのに閉口したものである。前日高瀬駅での単車の騒音にまさる蚊の襲来で、間断なくまといつかれ、遂に我慢ができず三時前に起床。大豆製のコーヒーを沸かして夜の明けるのを待つ。

 五時十五分出発。六時四十分、七十九番高照院。八時半、八十番国分寺着。中途八十一番白峰寺を先に打った方が良いとすすめる人もあったのだが、小生は順番に打ちゆく心づもりなので、国分寺から旧ヘンロ道をたどって白峰をめざし五色台に登る。

 中腹までは道もはっきりしていたのだが、水を引き込むビニールパイプなどに惑わされ、道を失い、かずらやいばらが繁って、二・三メートルの松林などの中を、ヤブコギをしつつ行くうちに霧が出てきて心細くなったものの、意地でも前進して行かん、昔はお大師様もこのような道ならぬ薮中を切り開いて行かれたのであろう、などと思いつつ必死のおもむきで、いつしか然程(さほど)高き山でもないのか頂上に出る。

 麓の店の人も言っていたことであるが、驚くことに頂上とは言うもののだだっ広い原っぱで、道もたて横種々様々に入り交じっており、二・三十分ばかり、北に行き西に行きなどして迷う。手元の地図でもさっぱり概要がとらえられず困ったものである。砂利敷き詰めた道を、これこそはと行くと、フイッと谷に出て行き止まっており、Uターンした車輪の跡が憎らしかったものである。そうこうするうちに遠方に一寸した建造物が見えたので、お寺もその方向であろうと見定めて、谷を後ろに大回りして行く。

 当処は悉(ことご)とく自衛隊の演習地らしく、やっとのおもいでアスファルトの道に出ると、立ち入り禁止の立て札と門がまえしてあり、小生はその中で右往左往していたものである。



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