〔十四〕 五十六番泰山寺。住職さんと少し話をする。巡礼歌のこと、南無阿弥陀仏のこと、一遍上人のことなど、仲々熱心な人で、小生如きものによくぞ話し込まれたものと感心する。 此処で前田卓著”巡礼の社会学”などの本を買い求め、リュックが重くなる。 十六時同寺発、五十七番栄福寺に参り納経を済ませ、すぐ上の岩清水?八幡宮にも参る。境内清々しく、 いくそたび かきにごしても 澄みかえる 水や皇国(みくに)の 姿なるらむ 八田知記 の歌がしたためてあった。ちなみに四十九番浄土寺の隣りの日尾八幡には、”鳥舞魚躍”の句が彫ってあるのが印象的であった。 十八時前、五十八番仙遊寺。同時二十分には下山の途にかかる。下の町にて一風呂浴びて、ラムネを接待していただき、二十時すぎに伊予富田駅に着く。同駅に泊まる。 六月二十三日、日曜。五時半起床。六時発。半頃には五十九番国分寺着。例の怪(あや)しの老ヘンロがいる。昨夜は当寺の境内に宿泊したとのことだ。小生は読経納経を済ませて、さっさと次の札所にむかう。 伊予法華寺(国分尼寺)に寄り、旧道に戻ると、また例の老ヘンロと一緒になる。この老ヘンロ桜井駅で汽車に乗るとかで小生と別れる。 孫兵衛作(地名)を通過したのが八時。この辺りより雨模様。世田薬師の下を通り抜けて、番外生木(いきき)地蔵についたのが十一時十五分。この上には福岡八幡がある。この生木の地蔵さんには、その後小生新居浜に居付くについての足掛かりを頂くことになり、随分と恩恵を蒙(こうむ)った処である。 大頭(妙口)から湯浪へ向かう道すがら、食料品店のおかみさんに親切にしていただく。この人は広島にも住んでいたことがあるとのことで、なつかしく話をする。哀れむべきは、この人昨年(昭和五十五年)死去したということだ。 さて湯浪(ゆうなみ)には十五時五十分着。通夜堂に落ち着く。当堂隣りの住人は、一老人なるが、ラジオをかけっぱなしにしており、嬉しいことには、シャンソンや小生好みのフーガ風の旋律が聞こえてくる。 そうこうする内に外の方も雨が止んで明るくなり、外に出て、山の方などを眺めていると、隣りの老人、”まあ、座りなさい”と言って、話しかけてこられる。それから近在の人達なども出てこられ、結局夜遅くまで話し、一段落してからは老人と二人で酒を酌(く)み交(か)わすこととなる。小生は梅酒ばかりいただく。寝入ったのは三時頃である。 六月二十四日、月曜日。六時起床、七時出立。六十番横峰寺には八時二十分着。納経を済ませて星ヶ森に行き、石鎚山を拝し、下の湯浪に帰ったのが十時半。この日、結局近在の人らと話しなどをして、もう一晩この老人宅に泊まることになる。 通夜堂の内に張り紙があり、宮崎県都城市勝目某母娘のものである。この湯浪への道端に竹に紙きれをさしたツテ文もあった。 勝目様、I.K うしろにいます 、云々 とあった。後日、再度横峰登山中この母娘に行き会ったことがある。 さて、この善根宿の老人は古坊(横峰寺の八合目位のところにあった、今は廃村)の生まれで、若い時分はお寺参りの人達の世話などもしていた由。今は山仕事を呑気(のんき)にしておられる。後日驚いたことに、現在いる処のすぐ近くの住宅地に息子さん夫婦がおられ、つい先日も再会を喜んだことである。 六月二十五日、火曜。五時四十分起床。朝食済ませ、出発したのは八時十分頃である。この度は、美味の梅酒をよばれたのもさることながら、なお貴重品の山独活(ウド)の味噌づけなどもいただく。途中の農家でもバナナの接待もあり、この近辺随分とおかげを頂いたものである。 香園寺奥の院・白滝の不動さんに四時頃に参り、守りをしているおばあさんにビワを接待してもらう。それから六十一番香園寺、六十二番宝寿寺、六十三番吉祥寺と済ませて、六十四番前神寺へと向かう。 次々と えにしを結ぶ 遍路道 まさかここらで 友に会うとは 十八時五十分、十一号線より前神寺へ向けて右にとって行くと、広島ナンバーの車とすれ違う。ひょいっと見ると、運転しているのは高校時代の同級生の新保君である。仕事を終えての寺社巡りとの由。奇しき出会いである。まさか四国に居るとは、お互い知らぬことで、突然の出会いは嬉しいことである。 小生は一応納経済ませ、新保君は松山に下宿していることなればとて、同乗し松山椿神社の近くまでゆく。この日は前神寺の近くの石鎚駅に宿をとる予定であったが、この夜は三坂峠へドライブなどして結構な日であった。 六月二十六日、水曜。新保君も香川方面へ仕事に出掛けるので、石鎚駅まで同乗。そこから再び歩きはじめたのが十二時十五分。新居浜(喜光地商店街)をすぎて国領川の河原で飯盒のメシを食し、十七時十五分に土居に向かう。後日この近辺に居付くことなど、とても考えおよばぬことであった。 番外いざり松。摩尼山延命寺に十九時着。大師堂に宿を借り、お茶をいただいたのは幸いであった。 |