辺路独行 5
札所四十番観自在寺〜五十五番南光坊



〔十一〕 〜 伊予路、道後を通過今治へ〜

時変えて 処変えてぞ 巡り合う

此の世のえにし 道にまかせて


 六月十五日、土曜日。六時過ぎ起床。書き物などしおるうちに加藤君も目覚め、近所の食堂へ接待とて行く。又、実家より送ってもらった、味噌・らんきょなどをいただき、四十番観自在寺に参り、同寺出発は八時四十分であった。

 須の川灘という処で中食。鳥越トンネルを抜けて、於泥(おどろ)通過が四時四十分。松尾遂道六時。宇和島駅前の質屋に着いたのが八時三十分。六月一日に入質していらい二週間ぶりに腕時計を手にする。

 風呂に入り、街を少し歩き、十時すぎ駅近くの竜光院に入る。

 六月十五日〜お大師様の縁日(誕生日)とて多くの人々のお参りがあり、にぎわっていた。或いは歌い、或いは舞うなど、手拍子足拍子仲々の盛況である。宿泊の件、丁度通夜日だからとて許される。

 十一時すぎて堂内のにぎわいもおさまり、フトンひきはじめ、小生にも毛布二枚あたがわれたるは幸いであった。さて一旦寝床に入りたる後からもあちらこちらで声かけて話し合う人もあり、なぞなぞをかけたりなどしおる人もあり。小生らも中学時分の修学旅行にて枕投げなどをし随分騒いだ想い出があるが、たまの集団生活は実に愉快なものである。とかくするうちに、手をたたきて注意する人ありて、やがて寝入る。

 この日の夕方から宇和島のアーケード街は、夜市でにぎわっており、この中に先日松丸まで乗せてもらったトラックの助手に出会い、声を掛ける。土曜日なれば宇和島まで遊びに出てきたものならん。

 よく食い、よくのみ、よく歩いた一日であった。因(ちな)みに、観自在寺から宇和島まで六十キロメートル程の距離である。

 六月十六日、日曜日。五時過ぎ起床。既に半数の人は帰っていた。残っていた人たちから、ゆで卵やアラレなどを、さらにお寺さんより甘夏柑や御菓子などの接待頂く。

 七時四十五分、龍光院出発。和霊神社に立ち寄り、四十一番稲荷山龍光寺に着きたるは十時四十分。

 ここで今一つ記しておかねばならぬ事が有る。昨夜は街中にて例のトラックの助手と出会ったのだが、この朝八時半頃国道五十六号線にて前方より件(くだん)の松形運送のトラックが通りかかり(松丸から宇和島に仕事で出てきたのだろう)プップーと合図して、小柄な運ちゃんがにこやかな顔をのぞかせる。ほんの国道にてすれ違いたるだけのことなれど、己(おのれ)の操作できぬ出会いの不思議さを感じるものである。

寺結ぶ 道に移ろい ゆく季節

己が心も 田の面(も)に映し


 だんだんと行くほどに田んぼ多く、いずれの田にも老いも若きも入りて田植えしおる。四十二番仏木寺には十二時五分着。近所の田植えの人々数人がゴザしきて、鐘楼門の下に食事しており、涼しい風も吹いていた。

 本尊大日如来。尊顔麗(うる)わしきこと得も言われず。ここで一休みしおるに、一女人話しかけてくる。新居浜の隣りの土居町の人にて、宇和島に伊達公の催しものを見にきて、それからこの近くに造成中のゴルフ場を見に来たのだという。当時は列島改造の波激しく、津々浦々の肌を切り取っていた時分なれば、この人も東予から南予まで、はるばるゴルフ場の会員券でも投資のつもりで買い求めんときたりしものならん。

 十三時二十五分、仏木寺発。明石寺に向う。

 中途出会いたる老人(79歳)宇和島在にて、アア今日はいい空気をすいにきた。気持ちがよい〜などと、若い時分女かまいたる懺悔(ざんげ)をしなければなどといいつつ、元気にお寺参りをしておられた。宇和島駅前に自転車ころがせて、近在のお参りとぞ。

 十七時、明石寺着。寺には泊まれぬ故、ヘンロ道下りて、国道に出て、上宇和駅(無人)に泊ることにする。

 四十三番源光山明石寺を打ち終えて、これまでに歩きてかかりたる日数は、おおよそ十八日と半日である。


〔十二〕

 六月十七日、月曜。五時十五分起床。四十五分発。札掛九時発。十一時すぎ十夜ヶ橋着。内子十五時。この内子手前に五十崎(いかざき)という地名あり。この辺(あた)りより段々に雨降り始める。四十四番への道はお四国中二番の長路にて、雨も降るやらで多少心細くあるも、まずはボツボツと歩み行く。

 案内書には遍路宿の所在が記してあるものの、仲々の山中にて、いずれの道をえらぶものかと随分と悩みつつ歩いたものだが、十七時すぎ遂に道端の宿に入る。田村屋という家であった。他にこれという泊り客もなければ、リュックの荷をおろし、廊下一杯に濡れたものをひろげる。

 十夜ヶ橋近辺よりながめたる左右の山並みはおもしろく、北方妙見山から感応寺山中腹より少し上にかけて村落が点々としてあったのを記憶している。

 六月十八日、火曜。五時四十五分起床。夢に小学時分よりの友人Mをみたることを記してある。インド洋上出光丸(または昭石丸)の甲板で小生のことを思い出しているものか。朝食をすませ、七時十五分発。雨模様なれば少々うるさし。

 さて梅津に入りて、竹カゴ編みたる家があった。三角寛氏のサンカ小説に熱上げたることもあるものなれば、興をそそられたもののサッサッと通りすぎる。

 真弓峠にかかりて、近所の農婦のすすめにて、車道を行かず小道をのぼりたるに、久し振りにヘンロ道標示のブリキ板数枚をみかける。まことになつかしく思ったものである。

 十一時五十分トンネル通過。じきに雨上がりたれば昼食にするも、中々火がおこりにくく苦労したり。十四時十分に歩きはじめ、十五時五十分に落合(三十三号線)に出たり。この内子より落合への道を、この春(昭和五十三年)車にて通るに、丁度桜の散りおる頃で、杉の木立を背景に散り吹く花ビラを受けつつ、心地良いハンドルをまわしやものである。

 四十四番大宝寺には十七時十分着。

 納経済ませ、宿乞いたれば、通夜堂ありとて、そこに泊る。有り難きは寺の老婆にお茶を頂いたことである。

 堂内可成りのホコリまみれで、ガラスなども欠落しておった。しかしフトンはなんとか使用出来るものなれば、上等とすべきか。

 堂内に伝文があった。

九州へ帰ります。原口。

S49・5・28 御大事に


 又、

勝目さま、九州へ帰ります。原口

S49・5・28


 と記してあった。丁度廿日前にこの通夜堂に宿泊したる人にてあらん。

 境内は杉や松の古木多く、水の流れよく、トイレの横の薪木場のうらには十数ヶの養蜂箱がおいてあった。昭和三十二年に再建されたという仁王門は、実に威風堂々であった。

 また大師堂におさめたるものに、「の」の字を二十九書き並べたものがあった。どこかしらに「め」の字を書き並べたものがあったが、「の」の字は脳のわるき人であろう。二十九才男と書き添えてあった。

飾りなき 心をはこび この道に

救い(すく)い求むる 人のかなしび


 空はうすピンク色に夕焼けて、さらりとした日暮れであった。

 十九日、水曜。昨夜は寝付きがわるく、フトンの水気(湿気)が甚だしく、その重さのせいか夜中の十二時頃に一度目覚め、また一時頃に寝る。五時少し前に起床する。

 ヤカンの返却、トイレ、本堂読経などを済(す)ませ、五時三十五分には出発。露を含んだカヤ類の雑草道を歩き、峠に到れば一面は霧につつまれて、わずかに遠方の山頂がのぞかれるのみ。少し道を下れば、大方は見えなくなり、陽(ひ)もかくれる。

 畑野住吉神社に出でたるは六時三十五分。わらぶきの社であった。道中案外と足手間取り、四十五番海岸山岩屋寺についたのは、八時半である。此処で二時間たっぷりとすごす。

 ・穴禅定(あなぜんじょう)

 当初入り進むに、前方わずかにぼんぼり灯が見ゆるのみで、全く洞内が如何様なるか見当がつかない。とかくするうち前方に、仏様の前垂れが見える様になり、懐中電灯をするわけにも行かず、うつろくつろとしおるうちに、柄杓 (ひしゃく)がみえて、柄杓があるのなら水があるのだろうと思っていると、まこと足元に湧水の井戸がある。

 これには驚いたことである。少し水を汲んでのみほす。又、水供養札にかけたりなどする。とかくするうちに、なんとしたることか、辺り一面悉 (ことごと)く見ゆるようになる。眼の順応が遅すぎるとはいえ、なんとも驚きいったことであつた。


〔十三〕

さりげなく 再び会ひし 巡りをば

多生の縁と さとすこの道


・迫割(せりわり)禅定

 中途三十六童子八童子巡りがあり、やがて岩壁の相迫った処を登る。それから鉄の鎖りでのぼり、さらに三十一段の大ハシゴで、白山権現を祀(まつ)ってある頂上にでたときには、なんとも言えぬ気分であった。彼方に石鎚山を眺めることが出来たのもよかった。

 さて同寺十時出発。山中のヘンロ道をゆくと、ヤブが非道く、引立林道に出て昼食、洗濯もする。陽射しがきつくて、じきに干していたシャツ類がかわいたものである。

 畑野住吉神社通過、十四時半。一時間して大宝寺勅使橋。いよいよ四十六番浄瑠璃寺にむかう。三坂峠手前で、前方より来た久万タクシーが停止したので、何事ならんと思っていると、当の運転手五月に二十一番大竜寺で出会ったのですよとて話しかけてこられたのである。また二十五日にタクシーヘンロに出立するので、再々会するかも知れずとや。

 十七時半に三坂より国道とわかれヘンロ道に入りたるに、岩屋寺の裏の道にも増してヤブが非度く、急な下り道であった。浄瑠璃寺には十九時十五分着。遅かったのだが、納経を済まし、本堂の軒下を借りる許可を頂いたものの、一応近くの長珍屋(ちょうちんや)〜この名が気に入った故〜に宿乞うに、「接待させてもらいます」と、有り難き女主人の言葉。

 ただちに風呂に入り、団体さんの残りものとはいえ、この身にはすぎたる食事を頂く。

 前夜、大宝寺の通夜堂に眠れぬ夜をすごしたにに比べ、フワフワとした暖かきねぐらであった。

 二十日、木曜。六時起床。団体の人達は食卓につき、先達の人の心経に和して、それから食事。宿の人は四時半頃にはお膳の準備をしておられたようだ。

 まことに当所は妙なる地で、どうしたはずみか当日は宿近くのN家に善根宿を頂くことになり、日中の間に近在の札所巡りをする。昼食の包みをもち、身も軽く四十七番八坂寺に参る。ここで梅の数珠(じゅず)を入手。恥ずかしきことであるが、ここまでは素手で拍手(かしわで)を打ちつつお参りをしてきたのである。

 それから番外霊場の文殊院、八塚とゆき、四十八番西林寺にむかう途中、荏原(えばら)農協前で新聞社の車とすれちがったのだが、後から追ってきて話しかけてくる。

 Kという記者が、色々変わったヘンロさんの事なども話していたが…。

 この日、五十一番石手寺まで一応お参りをすませ、N家には六時すぎ。近所の人と種々話しありて、床についたのは十二時をすぎていた。(今にしておもえば、この二十日というのは、お大師さnの命日〜二十一日〜の前日で、それでN家の人も小生を心良く接待したものであろう。このようにお大師さんの縁日とか親の命日などにはよくおヘンロさんを接待して善根宿を提供し、色々な話などをして一夜を過ごしたものであるらしい)。

 二十一日、金曜。六時起床。七時半発。

 四十八番にて広島の音戸よりきたという老夫婦に出会い少し話す。それから四十九番繁多寺、五十一番石手寺と再度お参りをし、道後を抜けて五十二番太山寺へ向かう。ようやく雨止みたる頃、土佐の今大師で同宿したあやしき老ヘンロと再会する。五十三番円明寺を打ち終えて海岸の道を今治へむけて歩む。

 二十時四十五分、浅海(あさなみ)駅に入る。ここの駅長さんは親切な人で、風呂にも入れてもらい、お四国さんの写真集も見せて頂く。

 二十二日、土曜。六時起床。四時半頃、駅長さん(梶原姓)の仕掛けたるベルが鳴って目覚めたが、もう一眠りする。

 六時二十分発。五十四番近見山延命寺には昼前に到着。境内でしばらく昼寝をして、十三時十五分発。五十五番別宮山南光坊には十四時十分着。ここでも、例のあやしき老ヘンロがおり、小生に話しかけてくる。

 今日は当寺に泊まる予定で草取りなどをしていた云々。なれど、小生が出立するに合せて急に出立の準備をしたりして、おかしな事であった。

 当寺は縁側で数組の人が将棋をしており、さすが街中の札所で賑(にぎ)わっていた。隣接する神社も清々しいものであった。

 さて例の怪しきヘンロを尻目に、さっさと次の五十六番泰山寺へ向かう。何を思って遍路しているのか、例の老ヘンロ、翌朝早く国分寺で出会うに、住職に種々難問答をしかけておった。

唯歩む 罪障滅す 道なれば

迷いし姿 己が目にせず


 今治駅の裏へ回って歩いていると、後ろより自転車に乗った若い女(ひと)が話しかけてくる。以前足摺への道中(久百々)で、小生に同乗すすめたるヘンロバスに乗っていた由にて、小生のことを記憶していたものだ。色々話をしながら歩き行き、泰山寺門前で別れる。



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