辺路独行 3
札所三十六番青竜寺〜三十七番岩本寺



〔七〕

束の間の やすらぎあとに 心招(よ)ぶ

辺土の道に 此の身運びて


 六月二日に広島に帰り、再び辺土に足をおろしたのは一週間後の九日のことである。広島港を十一時すぎに出発しているのだが、その前に後輩のM夫婦が帰広していたので会うと、新婚旅行のみやげとて、伊勢神宮のお守りを持ち帰っており、有難く小生の財布の中におさまっている。久し振りの再会であったのだが小一時間しか話すことも出来なかったようだ。

 三時松山発。バスにて三十三号線南下。六時二十五分高知着。前回車に乗せてもらった宇佐に着いたのは夜の八時十分。大橋を渡って、門田荘に入宿したのは八時半頃。風呂を済まし、突然の客なのに菜の品多き豪勢な晩食であった。カツオの刺し身なんぞもあり、さすが土佐の宿だけのことはある。食後テレビをすすめられ、広島の話などする。原爆ドームや資料館の話も出た。

 週末なれば釣り客の世話にて忙(いそが)しく、昔のように遍路さんの客を泊めていた時をなつかしくおもい出されていたようである。

 六月十日月曜日朝六時起床。洗濯機の音で目覚めたのであるが、七十を越した老婆がパートであろうか、シーツ類を洗っておられた。当の女主人はまだ寝ておられるとか、この老婆が朝食の準備をされる。女主人小生食事中に起きてこられ、食後も少し話にはずみ、善根(ぜんごん)させてもらいますとて、気持ち良く再度の独行に送り出してもらう。きっと再来を約して、七時十五分出発。ここにも後日車にてお礼に行き、再会を祝したものである。

 三十六番青龍寺に再参。このたびは海岸の方の奥の院にも参る。石を敷き詰めてあり、「土足禁ずる」とて、その奥に畳一枚も無かった程の石造りの堂であるが、二尺ばかりの浪切不動明王起立し居り、顔面など多少ボケてはいたが、仲仲の形体(ぎょうたい)であった。さらに趣きのあったのは、明王前方左右の天狗の像である。向かって右に構えているのは顔の部位が欠けて残念であったが、もう一方の天狗はカラスか小天狗の類であるが、黒ずんだ像の作りで、良い風情であった。堂の裏側はたちまち絶壁で、奇しき鳥が眼下を飛び去って行った。

 一時すぎ、鳥坂トンネルを越え、水の便のよい処で、広島より持ってきた玄米餅をくらい、コーヒーをすすり、一時間余りゆっくりしてまた歩き始める。

 十六時十五分、須崎市役所前芝生で休憩。学校帰りの小学生と少し話す。十九時半に久礼駅につき、ここに泊まることにする。中途焼坂トンネルをすぎて小雨がボツボツと降ったのは、定めしこの地方には助けの雨であったろう。小川は枯れており、床石のしきつめたのや、又ころげ石なんども、ジュウッ、と嬉し声をあげた。

先急ぐ 旅の闇路に 声太く

南無大師遍照金剛

南無大師遍照金剛


 トンネル内は、胎内潜りにも比すべきか。あか、あお、きいろ、大小、しろ、くろ取り混ぜて、まるで鬼車の行き交うは、おぞましく、雑音の激しく、前方に歩むよりの他なく、足元闇く、唯一心に、南無大師遍照金剛となむ、唱へ続けるぞ心地良し。寂静の地ならねど、声太く一心に唱えるべくおいこまれるのも実のある勤行である。

 久礼駅東北の小山に、エイヤットウの声が響く。学校の講堂にて小天狗達が踊っていたものか。

 一週間おきての歩みなれば、股ずれをおこす。とはいえ小股にて歩くほどに案外と進み行くものなれど、痛きことはかわらず、銭湯にゆきて早くやすまんとするも、夜分ドッドッとばかり雨強く降りしきるに、親子喧嘩の続きを駅の待合いにて為したる人あり。夜中一時にはおとなしくなりたれば、待合室の中のベンチにねる。牟岐駅で、外のコンクリートの上に厚紙しきて寝たるに比すれば、上等のねぐらとするべきか。


〔八〕

 六月十一日火曜日。五時起床。サイレン(時報)鳴りたるは流石(さすが)田舎の風情。可成りの雨降りおり、どうしたものかと多少ためらいつつも、六時すぎ出発する。ポンチョ(登山用の雨具)を使用する。これから久礼坂トンネル通過する辺りより小雨となり、歩みもうんと楽になる。七子峠すぎて、床鍋という地名あり。峠を登り切って盆地状というか、その名のとおり鍋底の如き土地なればこうした名がついたのであろう。

 余談になるが、この四国にきて歩いてみて気になるのが、ナルとかナラ、ナロとかの地名である。中国山地にも奈良原とかの地名があり、はじめは単純に奈良の都に関係ある土地なのであろう位に思っていたのであるが、一寸した機会に人にたずねてみるに、道をならす、という言葉があるごとく、平らな土地を示すという。高縄半島の真ん中山頂に、奈良原神社というのがあり、一度参ってみたいと思いつつ今に果たし得ぬのであるが、これらも一寸した山上の平地にあるものとおもわれる。

 さてその床鍋をすぎて、雪椿という処有り。地頭の娘お雪と順安という坊さんの物語が、土地の言い伝えにあるとかで、その話に引かれたわけではないが、近くのドライブイン椿にて朝食。坊さんと娘の悲恋話は三十一番竹林寺でおなじみのことなのであるが、ここで気になるのがツバキという植物である。

 足摺岬のツバキの群生、松山にも有名な椿祭りは衆知のことなのであるが、小生おもうに不思議と神社境内に椿の木が多いのである。(神社境内に限らずツバキ科の木が多いのであろうか?)

 広島に、人柱を立てて工事した川土手筋の社に、椿を植えて霊木(よりしろ)としたものもある。もともと色んな木が霊の依り代(しろ)として植えてあり、何もツバキに限ったことではないのであるが、ツバキの花のボタッと落ちるによせた造り話とすべきか、どうも気になることである。

路(みち)の辺(べ)に 種々の秘め事 埋(うず)めおき

今に明かさぬ 謎も布石か


 十二時五分、窪川 岩本寺着。前に述(の)べし如く、三十六番青竜寺から三十七番岩本寺まで、車にて一時間三十五分。歩きなおして、丸々一日と半かかる。

 十三時二十二分、西大方着。再度歩きはじめる。この辺り、前回は悲壮といわずも、ふところわびしく横にトラックがきているのにも気付かぬほどにて、ポトポトと歩いておった道なれば、なつかしくもある。

 中村の町を抜けて、四万十川大橋通過は四時頃であった(現在は少し下流にも橋ができておる)。足の疲れをおもいつつ、地図を眺めても手頃な無人駅などもなく、ここら辺(あた)りに投宿せんとしたるも、日も高く、遂に四万十川沿いに歩きつづけることにする。

宿想い 足の疲れも さりながら

道にすすむも 大師のはからい


 四万十川口に別れをつげ、山路に向かいたるころには、多少日も暮れかかっており、峠一つ越さねばならず、先がおもいやられるも、とにかく歩きつづける。

 峠にかかるまえに津倉淵(つくらぶち)という村あり。そのはずれに小屋のこわれたのがあり、心ひかれたのだがなんとかなろうとて、水飲みて坂道にかかる。

 当時の日誌をひもといてみるに、

 四万十川はし通過は四時頃、中村にて投宿するもはやければ、足の疲れと

 合せつつ歩くなり。五時すぎドライブイン民宿とあるに、素泊まり千三百

 円とはよろしからず、ラーメン、コーラ(二百十円)食し歩くことにする。

 伊豆田峠越えんものと張り切りたるも、中途大師前てふ処あり、谷におり

 てとどまる云々…

 峠道にかかりて、たたみ一枚半位の広さの小屋があり、そこで宿にしようかとみるに、バスの停留所・大師前、とある。人家無きにおかしなこととおもいつつ、ひょいっと谷側をのぞくに、ほのかに灯りが一つみえたのである。少しばかり距離があるのでためらったのだが、なんぞ百姓家でもあるのだろうとおもい、下りて行く。

山路ゆく 端(はた)にしるべの 大師前

ほのかにゆらぐ 灯(とも)しびかかげ




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