辺路独行 2
札所二十四番最御崎寺(東寺)〜三十五番清滝寺



[四]

辺土ゆく 道にあふれる よろこびの

浜に大師は 宿をかざりて


 さて楽しい旅も夕方に近づくにつれ、今夜の宿はどうしたものかなどと考え始めると、まことにわびしいものである。その上、空が俄(にわ)かにかきくもり、雷がゴロゴロと鳴り出したのには驚いた。佐喜浜という少しにぎやかな街に入ってからのことである。一老人が自転車を脇に国道を横切ろうとしているので道をたずねると、今夜は泊りなさいとて≪善根宿≫をいただく。少しばかり山手に入った処なれど、初めての善根宿なので、有難く、それだけに又想い出すことなども多い。

 さて、老人一人暮らしで、その父親は、お四国を八回も巡った由。志度から長尾に向かう辺りの出身の人で、戦後二十四年ころここに居付いた由。息子さんなどは高松に居られるとのことだった。永年鉱夫として全国の山を歩いたらしく、山水を飲むのに、山ヒルに気をつけて、葉っぱを当てて飲んだり、毒気多しとみるや息を吹きかけて飲むことなどを話された。

 一体全体、高校時代より、年老いた人は何を考えるのかとおもい、古本屋に通っては古ぼけた人生読本などを買い漁り、読みすごしたりなどしてきたものだが、この老人のその夜の話に出た言葉は、ありふれた言葉にしろ、こうした縁を機になんとか自分の身に移植したいものと念じている。

そりゃそうじゃな、ほんとじゃな、又明日にしよう、明日やろうや。

 又、稔(みの)るほど頭を垂れる稲穂かな、ということを話された。

 何といってもフトンの中である。朝、ゆっくりさせてもらい、洗濯もし、下水のつまったのをなおし、朝食をよばれ、一時少し前に出発する。

 八十八ヶ所お礼方々車にて、この老人の処に参ったこともあるのだが、今頃どうしておられることやら気懸かりなものである。人の食事のことをいうのもなんであるが、大根おろしがカライとて砂糖をまぶして食べられるのには驚いた。

 この家に、小生が泊る一週間前より蜜蜂が群れをなして庭の柿の木にきたので蜂箱におさめたことや、その一箱およそ三升の蜜がとれること、この蜂は日本蜂なれば洋蜂の如くは刺さぬことなどを教わる。

 当地は辺鄙(へんぴ)な処のようなれど、中々活気があり、まだ奥の方にも大きな養鰻場(ようまんじょう)など、上方かしらの財産家の経営でなされている由。

 室戸に向かい二十四番 最御崎寺(ほつみさきじ)に到着したのは夕方六時丁度である。中途、広島の沼隈郡(ぬまくまぐん)より来たという七十歳位の男の人と同行する。この人は大体バスでつないでは巡っているとのことであったが、「旅は道づれ」とて、二十五番津照寺迄一緒に歩く。この人ふところにチーズをもっておられ、一緒に食す。

 七時四十五分到着。たしか若い住職さんに納経印をいただいたように記憶する。つれの人はお寺に素泊まりにて八百円。小生は本堂脇の仮小屋にてゴザをしいてねる。食事はお寺のお茶をよばれて、佐喜浜のおじいさんにいただいたゴハンを食べる。実に満腹満腹。

 一つ書き落としたことがある。佐喜浜の老人が目の悪かったことである。片目はほとんど見えなかったように記憶する。前にも記したようにこの辺路道に、目の病に関係した、見えざる糸がつながっているようで、ひょこっと芽をだすようである。或いは小生のおもいすごしかも知れぬ。


[五]

南無大師 種々のみ姿 見せて行く

この道ゆかし 胸におさめて


 五月二十八日火曜。二十五番 津照寺、五時前起床。五時十五分出発。この道に出てから十日目のことである。

 二十六番 金剛頂寺(西寺)、七時出発。二十七番神峰寺に向かう中途(九時すぎ)徳島ナンバーの黒い乗用車より奥さんらしき人、接待としてパン二ヶと二百円程いただく。

 奈半利(なはり)という、奈良辺の名張と関係でもあるのかしらんが、変わった地名の処をすぎて、神の峰の山麓にて昨夜同行した沼隈郡の人が下山して来るのに出会って、又別れ去る。山道に入り、今治からきたという三人の女性連れと一緒になる。この人らは少し前、国道にて小生に同乗を誘ってくれた人達である。四時前本堂着。それからこの人たちと一緒にお参り納経を済まし、下山後車の処にて別れる。

 夕方灯りのちらつく町に入り、安芸駅(廃線)についたのが八時、そこの待合室の木製のベンチに泊まる。六時半頃、神峰寺の本堂で出合った老夫婦の車に乗らないかと誘われたのだが、丁重に断わる、と誌してある。独り歩く道なれど、車の接待もこの道の供養とて、随分とことわるのに苦心したものである。

 五月二十九日水曜、五時起床。半出発。十三時二十分、二十八番 大日寺到着。昨夜疲れが取れなかったゆえか、また余りにも南国の陽射しが心地良かったものか、中途で休んだり一眠りしたりはかばかしく足が進まなかったものとみえる。前日は四十五キロメートル近くも歩いており止むをえぬことだ。

 二十九番 国分寺への道で、ヘンロ道以外の田圃(たんぼ)道を通り、予想外の長路となったり。然(しか)しながら、この道で野中兼山の農地開拓の実績を目の当りに見、大いに感心する。後免の地名もなつかしく思い出される。お寺も仲々落ちついたよい感じのものだったように記憶する。

 夕方五時半国分寺発。七時十五分、三十番 善楽寺着。ここの通夜堂に泊めてもらったのだが、そこに居ついている人と、国の政策か、宗教上のことか話しているうちに気を悪くしたのと、夜分ラジオの音がうるさかったこと、ドカ雨が降ったことなど、余り良い印象がない。もう一方の三十番の方へは行ってはいないのでなんともいえぬが、なんとなく感触の悪かった処である。

 住職の責とす可(べ)きか、或いは土地柄ゆえのしからしむる処とす可きか。全国的にみても、この土佐の国は訴訟事の人口比が一、二位を争そうとの話を耳にしたことがある。

あけて三十日。楽しみの桂ヶ浜、

波しぶき まぶしく光る 彼方より

世は太平の 時を眺めて


 坂本竜馬と再会の道である。風波激しく浦戸大橋からの眺めが得も言われず、海岸の松林が目に残る。小雨が降っていたが、しばし竜馬と太平洋をにらみ、次の札所へと急ぐ。

 三十四番 種間寺には五時四十分着。雨降おれば此処(ここ)に宿をとる。本堂改築中にてコンクリートの床なれど、雨風はしのげたのである。

 五月三十一日金曜。五時起床、半に出発。

 八時十五分、三十五番 清滝寺着。逆修の塔。不入山(いらずやま)。ニューサマーオレンジ。少しゆっくりとし九時半発。

 十時半、孫娘つれて買い物風のおばさん「お四国のヘンロさんですか」と声を掛けてこられ、百円ばかり接待してくださる。

 十一時五十五分、道端のバスに老人の集(つど)いて憩(いこ)いの時をすごしている中から、やせこけたおばあさんがわざわざ出てこられ、少ないですけれどと、百円接待。

 十二時半、荻(おぎ)岬に出る。波が激しく一人の若い女性(近くの病院の事務員か)がたわむれており、また老女が石拾いにきており、乗馬した青年が、カッポカッポと往き来していた。

 十三時五分にまた歩きはじめるに、昨日種間にて話をした土佐の人が宇佐大橋の手前にて小生に追いつき、同乗すすめられたれば、ふところ具合もあり遂に乗車することにした。

 序(ついで)に誌すのであるが、この夫婦は高知市の北、秦泉寺という地名の処の人にて、職は大工。夫婦にてヒマをみつけてはお四国参りをしているとのことであった。

 奇妙なことに、三十六番青龍寺より窪川岩本寺に向かうに、奥さんの意見強く横波スカイライン沿いに行くに、中途検問あり。盗難車にて婦女暴行の某がどうやら逃げこんでいる由。これが又小生九日後に車に乗せてもらった分だけ歩こうと再来した時、夜分小学校かしらに泊めてもらおうとしたのだが、例の事件のあおりを食ってそっけなく宿をことわられる。

 しかし、橋を渡りて宿を探(さが)すに、門田荘(あるいは角田荘)という民宿があって、気持ち良く泊めてもらうことになったのである。


〔六〕

右左(みぎひだり) 上(のぼ)り下(くだ)りの眺めよし

太平洋の 陽射し明るく


 青龍寺発十四時三十分。三十七番岩本寺には十六時五分着、車にてわずか一時間三十五分の処なれど、後日歩きなおすと、丸々一日と丁度半かかった。

 さて横浪スカイラインは、当時出来立てのドライブコースにて、眼下の海の色、沖行く舟、漁船等南国の風を心地良く味わったものである。これは車でも、歩いても室戸への道とはまた少し違った変化のある道である。

 岩本寺にて初めて羽子板の羽根につける実の木「むくろうじ」というのを知る。これは納経所におられた青年僧にたずねて知ったのである。昨年(昭和五十二年)12月二十四日、車にて南予からまわって岩本寺に参ると、本堂かしら新築中であった。

 さて、同行夫婦は高知まで帰るとて、ここで別れる。お礼をいい、出発したのは十六時二十五分。四時間余り歩いて(二十時四十五分)無人の伊与喜駅に着き、そこの小屋に泊まる。ここまでの道すがら、ものはためしとて(日暮れてから)道端の家に宿を乞うに、そっけなくあしらわれる。これはこちらの身なりが怪しければ無理もないことである。別に大した期待もせずに、一応は経験しておこうと試みたことである。

 足の疲れが気を犯しつつあったのかも知れぬが、人に物乞う不得手の性分なれば、少々寒くとも無人駅なんぞに宿とった方が気が楽でもあったのだろう。

 また、中途、ホタルが川面にポッポッと行き交っていたのがいまだに忘れられず思い出される。

 夜九時頃まで駅の向かいのグランドではナイター(野球)をしていたようにおもう。

 三十七番岩本寺より約十九キロメートルは歩いたのだろう。中村まで三十キロメートルの地点である。この晩は寝つきが悪かった様におもう。隙間(すきま)風もさることながら、所持金はもう三百円と無かったのである。

 六月一日土曜、十三日目。五時すぎ起床。出発。歩くのみ。途中、自動車工場の水道の水がおいしかったのをおぼえている。それから大方という駅をすぎ、どうしたはずみか、フラッとして気付くと、大型トラックが右横におり、「乗らんかねえ」の声がする(十四時少し前のことである)。

 敢(あ)えて躊躇(ちゅうちょ)するの暇(いとま)なく、さっさと乗り込む。中村市でおりて、時計でも質屋に入れればなんとかなろうと思ったが、列車接続困難の由。このトラック宇和島の近くに戻るというので、そこまでのせてもらうことにする。

 竹材専門のトラックにて北宇和郡松野辺の松形運送の車。運転手は小生より一つ下の人で、まだ若い助手を乗せており、生長の家の本かしら読んでいるようで、少し国のことやら、学生運動のことやら話したようにおもう。いたって気立てのやさしい人だった様に記憶する。縁は奇なもの、後日宇和島にてこの人と行き合うことになる。

 ともかくも松丸駅という処で宇和島駅までの切符を買うと百円であった。所持金は十円玉が少し残ったので、広島に帰る由を電話して汽車に乗る。

 いざ帰るとなると、心浮き浮き、宇和島駅に入る車窓に、なつかしい街並み人込みのにおいをかいだものである。

 駅近くの質屋にて時計を参千円にて納め、松山までの汽車賃と広島への船賃に充分間に合う。余談ながら、その時計は今に小生の腕にあるのだが、広島で質流れの品五千円にて買ったものであるが、なかなかの逸品である。

コツコツと 今日と明日との 時刻む

ウオッチはるばる 異国の蔵に

辺路道 しばし歩みの 息とめて

心ばかりの 胸のやすらぎ




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