辺路独行 1
札所一番霊山寺〜二十三番薬王寺



〔一〕

口交(か)わし口交わし対(つい)の鳩

祝儀終えてや 堂に飛び立つ


 十年一昔ということもさりながら、三年も経てみると、随分と自分の記憶の定かでないのにおどろかされる。まして当時の精神状況などおぼつかなく、ただ残された日誌より推し測るより他によい手段もないようである。

 五月二十日、阿波一の宮大麻比古神社参拝後、一番 霊山寺に入る。

睦まじく 鳩のたわむる 境内に

いざ旅立ちの 心ときめく


 ふところ具合いが幾分心のあり方に影響したかどうか?所持金は、充分な金額ではなかったように思うものの、宇高連絡船にて生ビ−ル一杯飲んだことが記されている。

 何故、遍路の旅に出たかは問うまい。それといった緊急の事態が生じたのではなく、今にしてみれば(無論当時もそのような心つもりが多分にあったのだが)時の到来、宿命とか業とかの、しからしむる処であったのであろう。別段心暗い趣があったわけでもなく、社会への逃避反発とかいった観念でもとらえきることが出来ない。ただ、しからしむる処、己の生来の芽がふいてきたということであろう。ただし,三年経た今日でも、その生来の芽がいか程自覚されているか怪しい。弱冠30歳にしてさほどの苦心惨澹をなめつくしたというほどのものでもなく、己の意の赴く処か、辺土の道を歩いた次第である。

 それにしても前出の歌は、今更に自分自身驚かされている。その時、その場の情景を記したものであろうが、己のあずかりしらぬ他者が発露したものとしか思われぬ。往々、精神の昂揚に伴い、この陽気な他者が口ずさむ。この他者の振る舞いを心憎く思うわけではない。

 こうした他者が旅の道に(恋路に)見知らぬ風景に、ヒョイとその真面目な姿を現わすようで、こうした語句の発揚を辺土の路(みち)に見出すことは或いは往時の病苦にさいなまされた人々の歩みを思うと、ぜいたくな話である。

行くほどに行くほどに

道は険(けは)しくなりぬれど

人の心ぞありがたく

我発心(ほっしん)の心さだめや


 六番 安楽寺本堂脇にて宿をとる。夜中、雨降りたり、蚊も居たり。雨降り込み寒くて眼を覚ました事をおぼえている。

 二日目。11番 藤井寺本堂の縁にてねる。雨に痛めつけられた一日で、途中の民家(吉野川を渡った処)にてお茶の接待を受け、胸の内のぬくもりたるが今に思い出される。

 三日目。藤井寺を早く出発、焼山寺へ。焼山寺にて三品付きの食事二百円也がおいしかったこと、又、父僧とその子息?が碁を打っており、山中の寺の一コマとしてなつかしく記憶している。(藤井寺を五時十五分出発。長戸庵着が六時四十分。柳水庵を八時発。九時に一本杉。 焼山寺には十時二十分着。小雨摸様であった。)

 十一時半に焼山寺を出発。三時頃、鬼籠野(おろの)という興味をそそる地名があり、そこの土地の神社かしらの前に一休みしていると、一老人、足の不自由なのにも拘わらず、わざわざ急須(きゅうす)を持って来られ、新茶を接待して下さる。実に美味(おい)しかった。

 さて小生三日目に十三番 大日寺に入ったわけであるが、そこで白装束で身をかためた十八才の大阪より来た少年と同宿する。この少年はすでに一週間目であるという。少し小雨も降っていたのだが、近所の人らしく庫裏(くり)の方にて、御詠歌を唱えておられたのが寝耳に心地良かったのを思い出す。今は全く記憶にはないのだが、夜半、小猫迷い来たりて煩わしかりしと記してある。


〔二〕

様々に 水の流れの 行き合いて

また別れゆく おのが小径(こみち)に


 五月二十三日木曜。五時過ぎ起床。同宿したS君にむすびをいただき、梅干し数個食す、とある。

 一夜の宿をいただいた本堂前を清掃後出発。田舎びた土手筋から川を越して十四番 常楽寺。次に十五番国分寺に入る。境内の荒れ模様もさりながら、威風堂々たる本堂にも驚きたり。烏枢沙摩(ウスサマ)明王の名も何かしらふさわしくひびく。傾きたるとはいえ堂の構えは一寸した古木の趣があり、女人の顔にべたべた装いたるが如きコンクリート造りの、ペンキぬりたる今様にはるかに勝れている。

〈種々の心経読じゅの風情あり〉

 小生など、高校時代に覚えたる心経一本槍の読経にて、大師宝号はおろか、光明真言などもこのお四国の道を歩きはじめておぼえたので、各札所にて行き合う人々の様々の読経姿に、おどろくことが少なからずあった。恐らくここ国分寺にて、若い男の早読みの経聴きて、前句を記しておったものだろう。

 余談ながら、昨年(昭和五十二年)この国分寺の縁類にあたる人と新居浜にて食事を共にする機会があり、その人は現在讃岐の国分寺近くに住居を構えておられるとのことで、おもしろく思ったものである。

 十六番 観音寺。同行のS君無断にて本堂内に立ち入り勤行、留守居のおばあさんにやり込められる。

南無大師 我が身にいます ことなれば

あえて荒波 立てぬ金剛


 S君とは一応ここにて別れ、小生は先を急ぐ。十三番大日寺に小生が入ったのは三日目、S君は七日目だそうで、足の違いは止むを得ぬことだ。

 正午ジャスト十七番 井戸寺に入る。これから十八番への道が随分とつらく、途中徳島市内の繁華街をすぎて、一休みして接待のパン(街中のお店の人よりいただく)一個食し、ジンジャーエルを飲んで、いざ歩き始めた時の足の疲れはえもいえず、数分間もかかって、普通の歩みになった。十数分間だったようにおもわれるのだが、いずれにしろ、つらかったのはかってなかったことであった。

 十八番 恩山寺には丁度六時に入り、納経を済ませることが出来た。これは翌朝の早出が出来るので時間的に随分と助かる。博多からこられたという、斎藤さん夫婦が軽のライトバンにてかけ込んでこられたのだが、既(すで)に時遅く納経出来ずに当所にて車中泊り。毎年店を休業してまわられるということで、フトン・釜・マキなど一式揃(そろ)えておられ、一週間もかからぬ急ぎの旅だそうだ。

 この境内で、ムササビが木から木へと移動するのを見る。バサバサとかなりの数がいたようだ。

 驚いたことに夜十一時、S君着堂。同宿。井戸寺から八時間かかりしとのこと。まことにその頑張りに感心する。このS君の頑張りに啓発されたものか、翌朝奇妙な夢を見て、どうもそれがS君と小生の、前生かしらのかかわりを知らせたものらしく、又、現在お守りしている大師堂が、新居浜新四国の十八番に当たっていることも考え合わせ、今に小生独行中の謎としてある。

 さらにこじつけになるのだが、小生新居浜の現在の堂に入る前、四十日程世話になったお寺の人の姓が斎藤である。博多から来た人の姓をノートに記していたが故に、今こうして筆を走らせつつ小生自身不思議に思っているのである。

 五月二十四日金曜日、五日目。食事に用(もち)いた金額の内容をしるすと、(昭和四十九年の事である)

朝 梅干し二個

昼 ブドウパン 七〇円

牛乳 四〇円

夜 トマト 四〇円

キャンデー 六〇円

風呂 七〇円


 右の様にて、飯盒(はんごう)も持っていたのだが、なるべくパンなどで、簡単に済まし先を急いでいたものである。気持ちにゆとりが出たのは、六十六番雲辺寺を済ませたあたりからだろう。


〔三〕

 この日朝五時四十五分出発。七時前に十九番 立江寺に到着。昨夜の斎藤夫婦も少しおくれて来寺、じきに出発された。

 二十番 鶴林寺への中途、ワラジにはきかえてみると、歩き易(やす)くなり都合(つごう)良くなったのか、地元付近の申(さる)年の青年と同行したからか、二人なので話がはずみ歩みが速く、二十一番太竜寺には十五時半に着く。鶴林寺にて弁当を開いていた岡山のタクシー組の人達は少し遅れてくる。この岡山のおくさんは、勿体ないとてジャリ道を裸足で歩いておられた。又、橋の上で杖をついてはいけないとて、十夜ヶ橋の話をされたのをおぼえている。

 納経を済まし少し散策し、十六時二十五分発,二十二番 平等寺には、十九時着。ここの住職さん?と少し話をするに、八十八ヶ所を卒業するまでに、何かを獲得しなければならない。「多分…だろうと思います」といった小生好みの発想では何も掴(つか)めない。急がずにじっくり考えて行かなければならない…。こうした話をうかがったように思う。太竜寺であった岡山のおくさんも、しっかりと利他のお願いをしなければならぬと言われたように記憶する。それはそれで確かなことなのであろうが、悩み少なき小生らにおいては、参考にしつつも門前の風呂屋に旅の汗を流したものである。

この道は 大師の導く 道ならば

おのが心も 大師の元に


 この風呂屋にて半盲の人と同浴する。この人は太竜寺を下っているときにすれ違いたる人で、広島の福山で三十人からもの人を使って治療所を開いているとのことだった。たまたま風呂屋にて声をかわしただけのことであるが、実は小生がお四国を巡るに際し、人よりいただいた衣があり、その衣には経文から念仏真言等白地一杯にかきこんだものにて、ある半盲の人にこれを身につけてまわればよかろうと世話した処、天理教の信者なれば、大師の道を歩む用なしとて、返却されたものである。

 つまり小生の好むと好まざるとに関係なく、盲の人の代参めいたことにもなっているのである。これは小生の祖父が晩年に盲になったことにも関連していることなのであろうが、そこの見えざる糸は余り引っ張り出すこともあるまいか。

 平等寺大師堂の縁に泊り、五時起床。老人(近所の人か、堂内に入り)小一時間ばかり読経。世界平和や遍路さんの無事を祈念されておられたようだ。

 六時四十分発。十二時丁度 薬王寺着。遂に阿波を終え、土佐への一歩を踏み出す。

発心の 心も未だ 芽を出さず

修行の土地に 遊ぶこの見を


 などと呑気なことを言っておれたものではない。十八時牟岐駅につき、所持金のことやら一応は一国めぐりを終えたことやらにて、無性(むしょう)に帰りたくなり、里の広島に電話するもどうにも通ぜず、止むを得ず、奮励(ふんれい)続行の気を起こし、待合室に寝んとするも不可也とて、駅前のコンクリートの上に寝むろうにも寒くて、丁度近くに厚紙があったので(これが広島のプロパン工場のものだった)それを下敷きにねむる。この夜おそくまで、タクシーやらバイクやらのライトに照らされて、おもうように眠れず、転々する。

 五月二十六日(七日目)五時少し前に起床。五時五分いよいよ国道五十五号線を南下、室戸への歩を進める。

 鯖(さば)大師を経て、海部を八時半すぎに通過、東洋町に十一時二十分、遂に 高知県に突入する。たしか、トンネルをすぎて随分と陽射(ひざ)しの明るい処に出たように記憶する。それから四時に水尻という所、「人家荒廃」、と記してある。

 次に「六枚田人家なし」と記してあるが、多分道から見えぬ陰にでも人家があるのだろうか、バス停の標識がある。また一寸変わったのに、「ごうろごろ」とかの地名があり、木陰(こかげ)の石に老婆と小さな女の子がこしかけていたのをおもい出す。

 この室戸への道は、左手に太平洋がはるかにつづき、右手には山がすぐに押し迫ってきており、およそ人家らしきものもみあたらず、空と海と、唯ひたすら国道を南下するだけの、天気もカラッと晴れ渡り、単純明快、これほど気持ちのよいことは他になかったようにおもう。一日中札所に参らぬのもスカッとしてよかった。又、路辺の水がおいしく、野いちごなども潮風の影響か、色も赤々として、鶴林寺で食したのとはちがって大変おいしかった。

 まるで昨夜の牟岐駅での迷いが嘘(うそ)のようで、環境というか、風土というか、そうしたものの精神に与える作用というものは案外と無視できないようだ。とはいえ、自分の心が明るくはしゃいだり、少しユーウツげなよそおいをしたり、この自分の心の変化と、周囲の土地柄と、天候の晴雨が渾然(こんぜん)一体となって、この辺土の道というミキサーでかきまぜて、少しずつ心を練(ね)り、各自がもっている業とかいうものを洗い落としているのかも知れない。

芋の子を 洗うが如し へんろ道

雨もふるやら 風も吹くやら




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